誰もが知っている悲劇の王妃マリー・アントワネット。贅沢三昧を尽くした彼女が首を刎ねられたことはご存知でしょうが、悲劇はそこで終わりませんでした。マリー・アントワネットには幼い子供たちがおり、彼女が殺されたあとも子供たちはそこで暗澹たる人生を送っていたのです。
通説ではルイ16世夫婦が死刑になった後「息子のルイ17世はタンプル塔で病死」したとされています。しかし、「王太子」を名乗る謎の男が世間を騒がせてきたのはご存知でしょうか。この記事では、ひそかに伝えられていたルイ17世の生存説をおっていきたいとおもいます。
- ルイ17世は、獄中において肺炎で亡くなったとされていた
- 数十年後、「王太子」を自称する者が何人か現れ信憑性の高い者もいた
- DNA鑑定の結果、獄死したのはたしかに本人だとして生存説は否定された
王太子の死
ルイ17世を閉じ込めた監獄の扉には頑丈な鍵がかけられ、窓には網枠がはられていました。彼の部屋と隣室の間にまたがる暖炉の上に格子つきの窓が作られ、そこから食事が差し入れられました。それから半年近くの間、家族はもちろん王太子は人目を避けて隔離されていました。
1794年1月、ルイは独房に入れられ人との関わりも殆どなく、十分な食事も与えられていませんでした。翌年には公安委員会により『保護者』が続々と任命されましたが、ルイ17世は病気にかかったまま放置され衰弱死を余儀なくなれました。1795年6月8日、公開されたルイ・シャルルの死因は結核だったとされています。しかし身元が確認されなかったため、ルイ17世逃亡の噂は何十年にもわたって広まりました。
ルイ17世の生存説
「ルイ17世は酷い仕打ちをうけ、病死を遂げた」というのが通説でありますが、実はその後何人かの歴史家たちが新説を唱えていたのです。それは、途中から少年がすげ替えられ、実際のルイ17世は逃げおおせていたというもの。
この仮説の裏付けのひとつは、王政復古後にとられたシモン夫人の証言です。それは1月19日に引っ越し用の荷馬車がタンプル塔にきたとき、荷馬車には洗濯物かごや張り子の馬やおもちゃが積まれていたというもので。この張り子の馬に身代わりの少年が入れられており、王太子は洗濯物の下に隠されて塔から出されたというのです。
王太子とされた少年の解剖
ルイ17世とされた少年は医師ドゥゾーの忠告により栄養のある食事を与えられていましたが、6月6日の夜突然容態が悪化。全身に冷や汗をかき吐き気を腹痛にのたうちまわりながら、あっけなく息を引き取ってしまいました。
翌朝、ふたりの医師と助手の手で遺体の解剖が行われました。開腹すると、腸が結核菌に冒されていることが判明し、右膝と手首には大きな腫瘍がみつかりました。このとき市会役人のダモンが、遺体の髪の毛を分けてくれと頼み、新聞紙に包んで持ち帰りました。遺体が解剖されたとき少年の髪の毛を手に入れたダモンは、王家の紋章入りの革箱にそれをおさめ、「ダモンの保管せしルイ17世の髪の毛」と記し保管していたのです。
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謎男の登場
そして、王政復古後の1817年、ルイ17世の実姉マリー・テレーズに会見を申し込みました。ルイ16世一家での唯一の生き残りであったマリー・テレーズ。せめてもにと、ダモンはその髪の毛を彼女の護衛長であるグラモン公を通じて手渡そうとしたのです。
しかし帰ってきたのは予想外の返事でした。
これは殿下の髪の毛ではありません。
王太子殿下はもっと明るいブロンドの髪をしておられました。
仰天したダモンは、髪が年とともに変化したのではないか、自身はタンプル塔で王太子の頭から髪を切るとるのをこの目で見たのだと説明しましたが、「それは絶対に違う」としてグラモン公は相手にしなかったのでした。1833年5月28日、ルイ17世を自称するノーンドルフという男性が突如フランスへ現れました。彼が語ったのは、まさに奇妙な身の上話でありました。
自称王太子
あるとき、私は牢番からビンにはいった何かを飲まされました。
そして牢番はベッドの下の箱から寝入っている子供を出して私のベッドに寝かせ、私を箱の中へ急いでいれました。私はそのまま気を失い、目覚めた時には小さな部屋に寝かされていたのです。
彼の話はにわかには信じがたく、その出生を証明する何の証拠もなかったため、「自分はルイ17世である」という言葉を誰も信じなかったのでした。しかし1833年にパリに招かれたノーンドルフをみた引退判事は、「彼は国王一族の全員にそっくりだ」と叫んだのです。
馬鹿げたノーンドルフ信仰がはじまったのはそれからでした。信者たちは「王子の身の上話」があまりに信憑性がないとして、自分たちで考えた上脚色を加えてしまうほどでした。しかし驚くべきは、このノーンドルフが、その後二十人以上の王家の元従者から本物だと認められたことでしょう。
奇々怪々な身の上話
王太子はタンプル塔へいれられたとき、7歳でありそれから40年以上たっていました。記憶の混乱かと思いきや、ノーンドルフの話には奇妙な点もみられました。
1795年から1810年までどうやって暮らしてたかということははっきり思い出せないくせに、子供時代のこととなるといくつかの詳細をはっきりと覚えていたのです。たとえば、ルイ17世の小間使いであったランボー夫人はマリー・テレーズにあててこう書いています。
あなたの弟君は生きておられます。
彼を見た時、私にははっきりわかりました。王太子殿下とともに過ごした日々の思い出が、私に彼こそ本物であると確信させました。
マリー・テレーズが弟のを知ったのは、タンプル塔の中でのことでした。それが何を今更、怪しい男にマリーが警戒するのも無理はありません。
無視を貫いた実姉マリー
ルイ16世とマリー・アントワネットは断頭台に消え、一緒に閉じ込められていた叔母エリザベスも既に殺されていました。生きていたとして、ルイ17世の近親は実姉マリー・テレーズだけだったのです。彼女は長い監禁生活の末、人質交換という形で母の実家であるオーストリアハプスブルク家に身柄を引き取られ生き延びていました。
そしてそんな彼女の元へ、似たような手紙が叔母エリザベスの元侍女からも届きました。これらの手紙にマリーは返事を書くことはありませんでした。
王太子がきつくうさぎを抱きしめて噛まれた後など、ノーンドルフは体に王太子の体と共通するいくつかの特徴を持っていました。しかしマリー・テレーズへの謁見の申し出は断られ続けノーンドルフはひどく落胆したといいます。
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国王一族に対して、身分要求訴訟
実際、ルイ17世を名乗る候補者が多くおりました。
しかしマリー・テレーズはというと、他のどの候補者よりノーンドルフの手紙に心を痛めていたそうで、彼の要求を退けるために相当額のお金を使ってきていました。
しかし結局、謁見は叶わず、相変わらず無視し続けるマリー・テレーズに業をにやして、国王一族に対して身分要求の訴訟を起こしました。
当時の国王はルイ・フィリップ、彼は当惑してドイツに使者を派遣し、ノーンドルフのドイツ国籍を差し出すように命じたのですが、なぜか捜索はうちきられてしまったのでした。6月16日、突然ノーンドルフはとらえられ、書類の一切を押収。事が大きくなるのを案じて、国王がうった非常手段でありました。こうしてノーンドルフは無情にも、フランスからイギリスに強制出国させられることになったのでした。
謎を残してあの世へ
その後、彼はイギリスで爆弾の発明研究に従事しました。かつての王太子の卯墓は、彼がおもちゃの大砲を発砲したり、射撃を軍力指揮するのが好きだと語っていた物でしたから、このいささか異常な趣味も「本当に王太子なのではないか」という説を助長したといいます。
しかし1841年、ノーンドルフの家の爆薬実験室で爆発が起こります。ノーンドルフは大火傷をおい、さらに同年今度は借金を滞納して牢に放り込まれてしまいます。牢から出てきたときは少しばかりの資産もすっかり没収され、住む家もなくなっていたのでした。
その後ノーンドルフはオランダに向かい、オランダ政府からデルフトに定住する許可を受けます。しかしようやく安寧な日々を迎えようとしていた矢先、突然急病にたおれ、1845年8月10日あっけなくこの世を去ったのでした。
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ノーンドルフの正体は?
さて、ノーンドルフは本当に逃げ伸びた王太子だったのでしょうか。
彼の死から100年後、カストロはノーンドルフの髪の毛を鑑定しました。1950年9月27日、多数の学者や証人の間で、オランダ裁判所のヒルスト医師が、デルフト墓地でノーンドルフの棺を開きました。
そしてノーンドルフの髪の毛の一部が鑑定にかけられたのですが、結果はカストロを大きく失望させるものでした。ルイ17世自身の髪の毛にみられた「珍しい髄管内の中心転移」がノーンドルフの髪の毛には見られなかったのです。
さらに2000年4月19日には、決定的な事件が起こります。パリ郊外サンドニ教会に保管されていたタンプル塔で死亡した少年の心臓と、オーストリアの修道院に遺されていたマリー・アントワネットの遺髪のDNA鑑定がおこなわれたのです。結果は、タンプル塔で死亡した少年は、たしかにルイ17世であるというものでいした。つまり生き残りなどいるはずがなかったのです。
保存されていたルイ17世の心臓
しかしノーンドルフとは一体何者だったのか。
ただ単に顔つきが似ている故に「生き延びたルイ17世」となることを決めたのか。後ろに事情を知りつつ、よからぬことを考えた別の輩がいたのか。そもそもタンプル塔で亡くなった少年 (本物のルイ17世)の死蔵は、遺体の検死の際に医師の手で取り出され、その心臓はパリ大司教らの手を転々としたあと1975年に歴代フランス王家の墓のあるこのサンドニ教会へ納められていました。
(クリスタルの壺に入ったルイ17世の心臓)
そもそも人の手から手へとわたったとされるタンプル塔の少年の心臓が、果たして正真正銘の本物だといえるのかはおいておいても、これでようやく、ノーンドルフがルイ17世ではないと結論づけることができたのでした。
生存説の裏側
マリー・アントワネットの娘であり、一家で唯一生き残ったマリー・テレーズは遺書を残していたといいます。フランス外務省に現在も眠っていると伝えられるそれは、彼女の死からとっくに100年以上たったのに、それが公表されることもありませんでした。
何が書いてあったのかは、いまも謎のままです。しかしノーンドルフは「ルイ17世の生存説」をかなり色濃く残したわけですが、当の姉は会うこともせず死ぬまで彼を弟とは認めなかったわけです。しかし侍女の発言をはじめ、彼がルイ17世ではないかという説は死ぬまで彼女を苦しめました。
本物でないなら、なぜここまで周りが「ノーンドルフ=ルイ17世説」をヨイショしたのでしょうか。フランス革命は、国を血に染める混沌な時代を生み出しました。王家への恨み憎しみ、王党派とナポレオン派がぶつかりけして安寧とはいえない情勢だったのです。
1814年フランスで王制が復活し、ルイ18世 (ルイ16世の弟) が王位についたとき、姉マリーはようやくフランスに戻ることができました。
1824年に彼が亡くなると末弟のシャルル10世が後を継ぎ、ルイ・アントワーヌ・ダルトワが皇太子となりました。長年の亡命生活を経て、マリー・テレーズはようやくフランス皇太子妃となったのです。国民の支持がどちらに転ぶかわからない状態で、王家に恨みを持つものが裏で何らかの陰謀をめぐらせていたのかもしれません。
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まとめ
「保管されていた心臓」のDNA鑑定によって否定された偽物王太子の存在。しかしそれが発覚したのは、自称王太子であったノーンドルフが亡くなったはるか後のことでありました。
王家の従者が偽王太子の「ノーンドルフ」を後援したのは、王家に徹底的な引導を渡すための罠だったのか、はまたま正統な血筋として裏で政治を操ろうとする輩がいたのでしょうか。
不都合な真実はいつだって消されてしまう物ですが、マリー・アントワネットからはじまる悲劇は本人断頭台にたっても終わらず、子供たちまでをも巻き込み、また何百年たったあとも、世界をざわつかせ続けているのでした。
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