贅沢三昧の日々で国の財政を切迫させたひとりの女性。「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」といったのは本当か。この記事では、元フランス王妃 マリー・アントワネットについて、あまり知られていない10の事柄をまとめました。
マリー・アントワネットを知るための10のこと
① オーストリアの王女だった
1755年にオーストリアのウィーンで生まれた大公マリーアントワネットは、名門ハプスブルク家の出身。神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝と呼ばれたハプスブルク皇后マリアテレジアの15番目の子供として生まれました。
② 結婚したときはわずか14歳
オーストリアとフランスの新たな同盟関係を固めるため、オーストリアの君主は、フランスの王位継承者、ドーフィン・ルイ・オーギュスト(ルイ16世) の元へ末娘を嫁がせることにしました。1770年5月7日、14歳の花嫁がライン川の真ん中でフランスへ引き渡され、大行列が大公妃を護衛してベルサイユ宮殿に運ばれました。マリー・アントワネットが当時15歳のルイに会った翌日、2人の結婚式が豪華な宮殿であげられました。
③ 男性的欠陥、初夜に7年かかった
出会ってからわずか数時間後、新郎の祖父であるルイ15世は新郎新婦の部屋を訪れました。国王は新郎を祝福してキスをし、初夜を邪魔しないようにと部屋を出ましたが、その夜、ルイ (16世) とマリーアントワネットと2人の間には何も起こりませんでした。というのも、彼は痛みを伴う病気にかかり、行為そのものができなかったのです。その後の7年間は何も起こらず、結局1777年にオーストリア側の介入がありルイ16世は手術を受けて解決に至ります。マリー・アントワネットが子供を授かったのは結婚から9年目のことでした。
④ 10代のアイドルだった
女王時代とは違って、マリー・アントワネットは若い頃フランス国民を魅了しました。10代のあらたな皇女が嫁ぐとなってフランスは大はしゃぎ。彼女がフランスの首都に初めて姿を現した時、5万人のパリ市民の群衆が彼女を一目みたいとあつまり、少なくとも30人が圧死したといわれています。
⑤ 髪には、戦艦のレプリカ
ウィル・バショアが新著「マリー・アントワネットの頭」で詳述したように、ロイヤル・ヘアドレッサーのレオナルド・アウティは、そびえたち上品にセットされた髪型を作り上げた人物、アントワネットの最も親しい友人のひとりでありました。アウティエは女王の幻想的な髪型をつくるため、ふわふわの髪の毛のうえに羽や装飾を施し、ある時は英国のフリゲート艦沈没を記念してフランスの軍艦ラ・ベルプルの巨大な模型さえ彼女の頭に飾ったといいます。
⑥ おとぎ話のような村
農民がフランス中で飢えに苦しんでいるなか、マリー・アントワネットは宮殿の敷地内に『プティ・ハモーと』いう、湖や庭園、コテージ、水車小屋、などが揃ったユートピア村落の建設しました。女王と侍女たちは農夫の格好をして、絵のように美しい田舎の隠れ家で乳搾りと羊飼いのふりをしました。軽薄で手の込んだ出費の数々は革命家を激怒させ、マリー・アントワネットは『マダム赤字』と呼ばれました。
⑦ 「ケーキを食べればいいじゃない」とは言っていない
飢えたフランスの農民が「食べるパンがない」といったとき、アントワネットは「パンがないなら、ケーキを食べればいいじゃない」と嘲笑したといわれていますが、これは事実ではありません。そもそもこの言葉は哲学者ジャン=ジャック・ルソーが、ルイ14世と結婚したスペインの王女マリー=テレーゼを紹介するときに使われたもの。手つかずの無関心な王室をカプセル化するために使用されたフレーズで、それがマリー・アントワネットと偽って結び付けられたものであるといわれています。
⑧でっち上げられた容疑には近親相姦も含まれていた
フランス革命で窮地に陥った王家。ルイ16世の処刑から9カ月後、革命法定は元女王マリー・アントワネットを『大逆罪、性的乱交、息子のルイス・チャールズとの近親相姦』など捏造された犯罪で裁きました。2日間におよんだ裁判の後、陪審員はすべての容疑について元女王を有罪とし、満場一致で彼女に死刑を宣告したのです。(もちろん無罪….)
⑨ 棺は共同墓地に投げ捨てられた
ギロチンでの処刑後、マリー・アントワネットの遺体は棺に入れられ、マデリン教会の裏の共同墓地に投げ捨てられました。1815年ナポレオンが追放された後、ブルボン王政復古によりルイ18世が王位に復しました。ルイ18世は、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの遺体を掘り出すよう命じ、2人はサン・ドニ大聖堂で他のフランス王族とともに正式に埋葬されました。
⑩ ちなんで名付けらた米国の都市がある
(アメリカ オハイオ州マリエッタ)
アメリカ革命の退役軍人のグループが、マスキングガム川とオハイオ川の合流点で1788年にノースウェスト準州の最初の恒久的開拓地を設立したとき、イギリスに対する愛国者の支援に尽力していたフランスを称えることを望んみました。彼らは、フランスの女王にちなんで新しいコミュニティを『マリエッタ』と命名しました。
あとがきにかえて
マリー・アントワネットが何にも考えず宝石やドレスにうつつを抜かしていたのは、子供ができるまでのこと…。子供ができてからは落ち着いたドレスを着るようになり、『家族のことを考える母』に成長していったそうです。しかし彼女が落ち着いてきた時にはすでに遅く、フランス市民の彼女への印象はガタ落ちで、今さら何をいっても憎しみの対象にしかならなかったそうです。
ただひとつ事実として、たくさんの肖像画に残っている通り、マリー・アントワネットの美貌は多くの人を魅了しました。当時の画家は、いつも洗練されたファッションに身を包む彼女を描くのを誇りに思い、他の宮廷にいくと被写体を彼女と比較して落ち込むこともあったといいます。最後は革命軍により処刑された彼女。皮肉なことですが、「最も美しい悲劇」と呼ばれた最後があったからこそ、彼女の名は永遠となったのかもしれません。
マリー・アントワネットの生涯はこちら (【マリー・アントワネット最後の覚悟】逝くならフランス王妃のままで) に詳しくまとめております。
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