マリー・アントワネットというと「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」の名言で知られていますが、それは後世の作り話であるという説が最近では濃厚ですね。
実際貧困が深刻化していたフランスでは、ルイ16世とアントワネットの国王夫妻は「じゃがいも」を育ててこの危機を何とか乗り切れないか、と密かに試みを進めていたという話もあります。実物と本物にギャップがあるのは世の常ですが、この記事では、マリー・アントワネットとはどんな人物であったのかを、彼女が残した名言とともにご紹介します。
フランスへ赴く前の名言
ハプスブルク家の末娘として生まれたアントワネット。兄弟に翻弄されて甘えん坊なところがあり、母マリア・テレジアは「身分をわきまえて過ごすように」と娘を寝室へ呼び淡々と説いたといわれています。
ご安心ください、わたしには礼儀に関して何かを指導する必要はございません。
女帝と呼ばれたマリア・テレジアは家族をとても大切にする人物でありました。外交政策でフランスへ送られることになったアントワネットを案じて、輿入れ後も手紙のやり取りを続けていくことになります。アントワネットは母のことを、とても頼りにしていたのでした。
母はいつも俯瞰 (ふかん) して物事をみています。
わたくしの立場にたって考えるということはなくって、あまりにも厳しいのです。
しかし、彼女はわたくしを心から愛してくれています。
だから、彼女が話す時にはわたしは頭を下げるしかないのです。
親愛なる母が、私の人生のためにどれだけのことをしてくれたかを日々感じています。
私は末っ子でしたが、彼女はまるで私が一番年上であるかのように私を扱ってくれたので、私の心はとても優しい気持ちと、感謝でいっぱいなのです。
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輿入れ後の名言
国民に殺された、というイメージが強いアントワネットですが、輿入れ時フランス国民は彼女を「両国の平和の象徴」として歓迎したのでした。
私たちはパリに入りました。名誉に関しては、私たちは私たちが想像できる、すべてのものを受け取ったといえるでしょう。
しかし、私が最も感動したのは貧しい人々の優しさと熱心さでした。
彼らは多くの税金に圧倒されているにもかかわらず、私たちを見て喜びに我を忘れているようでした。それにわたしは感銘をうけたのです。
ドレス狂いについて
14歳で嫁いだアントワネットですが、ルイ16世の身体的な問題もあり、子供ができない時期が長く続きました。彼女はやがてドレスや宝石に夢中になるようになり、散財が重ねられていくこととなったのです。
確かに、私はどちらかというとドレスに夢中です。
でも羽に関しては、だれもが羽をつけていますし、わたしがつけなかったら、それはとんでもないことに思えます。
悪い噂に簡単に惑わされて、簡単に意見を変えることはフランス人の特徴ですね。
それでも (フランスの) 人々が、不幸の中でも私たちを大切にしてくれたように、わたくしたちも彼らの幸せのために働く義務があるのは確かです。
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母親になって
20歳をすぎて子供に恵まれる頃には、アントワネットの浪費癖もだいぶ落ち着いていました。ルイ16世は優柔不断な国王として知られていますが、どちらかというと優しい男性で、家族思いであったといわれています。事実、彼は歴代の国王と違い、公妾 (公的な愛人) を持つことはありませんでした。
王も王太子も、私が馬に乗っているのを見たがっているのです。
私がこれを言うのは、皆がそう思っているからですね。
とくにわたくしたちがヴェルサイユを留守にしている間に、彼らは私が乗馬の習慣を身につけているのを見てとても喜んでくれました。
名言から伝わってくるのは、仲睦まじい家族の様子です。
名家に生まれたマリー・アントワネット。わがままなイメージもつきまとう彼女ですが、自分なりの美学をしっかりともつ女性でもありました。
『自分の国に無関心である』と自分にいいきかせること、それを堂々と言えないことは、わたしはとても不公平だとおもっています。
わたくしは毎日の人生に、生きていることを感じる理由は、誰よりも多くあります。自分がどれほどそれを誇りに思っているか、示すことは慎しむようにしているだけです。
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裁判にかけられて
フランス革命がはじまると、一家はそろって幽閉されてしまいます。裁判にかけられ夫のルイ16世は早々に処刑、アントワネットは子供たちと引き離され孤独な牢獄生活を強いられることとなりました。アントワネットの裁判では、「内通」「公費乱用」「背徳行為」「脱出計画」など様々な罪がああげられ、中にはでっち上げられた嘘も混ざっていたといいます。
勇気ですね。私は何年もそれを示してきました。
あなたはわたくしの苦しみが終わるとき、それまでも一緒に失うとお思いですか?
私は王妃でした。でもあなたが私の王冠をうばったのです。
そしてわたしの夫を殺して、あなたは私の子供たちさえ奪いました。
残ったのはわたしの血だけです、どうぞお取りください。
でももう、これ以上わたしを苦しめないでください。
最後はフランス王妃として
その中には、子であるルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦があったと報告されたものもありました。まるっきりのデタラメであり、これには、さすがに周りにいた女性たちも同情を覚えるほどだったといわれています。
母の気持ちをわからないものには、私の病気も、この胸に満ちた恐怖も理解できないでしょうね。
忘れられたこと以外に、新しいことはないですよ。
アントワネットの主張は取りあわれることなく、最終的には死刑宣告がくだります。かつてフランス王妃だった彼女は、民衆の公然で首を落とされることになったのでした。
オーストリア (ハプスブルク家)出身であった彼女だけなら故郷に帰ることもできたのでしょうが、「わたくしは最後までフランス王妃でありたい」として夫共々フランスで命を落とすことを選んだのでした。
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アントワネットという人物
ハプスブルク家の末娘として生まれたアントワネット。兄弟に翻弄されて甘えん坊なところがあり、母マリア・テレジアは「身分をわきまえて過ごすように」と淡々と説いたといわれています。14歳で嫁いだアントワネットはなかなか子供ができず、散財に身を窶すことになります。
フランス革命が起こると、夫のルイ16世は早々に処刑、アントワネットは子供たちと引き離され、別々に投獄されますが、裁判により死罪が言い渡されることになったのでした。
末っ子として自由奔放に育ち、かと思いきや仕来たり多きフランス宮廷へ。待ち望んだ子供たちと、つかの間の幸せを教授するも、市民の怒りをかい切ない最期を迎えた王妃マリー・アントワネット。名言とされる数々の言葉には彼女の「生き方」が反映されているのでした。
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