- 革命勃発時、アントワネットの元にはふたりの子供がいた
- 国王夫妻とともに子供達も幽閉され、ルイ17世は虐待の末むごい死を迎えた
- 長女マリー・テレーズは牢獄生活を耐え抜き、72歳まで人生を全うした
フランス革命ではマリー・アントワネットの子供達も残酷な目にあい、息子は処刑よりも悲しい最期を迎え、生き残ったのは長女マリー・テレーズだけでした。
そんな彼女も幽閉から2年後に解放された時には、失語症のようになっていたといいます。この記事ではマリー・アントワネットの子供達はどうなったのか、おっていきたいとおもいます。
アントワネットの子供達
(マリー・アントワネットと子供たち supplied via Wikimedia)
この肖像画には、マリー・アントワネットと彼女の子供たちが描かれています。
左が長女のマリー・テレーズ、右が長男のルイ・ジョセフ、そして膝の上にいるのが次男のルイ・シャルル (後のルイ17世) です。この肖像画は、家族の穏やかな時間を捉えていますが、彼らの運命は過酷なものとなりました。
革命の勃発と幽閉
1789年、フランス革命が勃発すると、王族一家はパリへと幽閉されました。
国王一家は庶民の憎しみの的となり、民衆の怒りや憎悪にさらされる日々を送りました。ルイ16世の逮捕と処刑に続いて、マリー・アントワネットもまた、厳しい監視の中で孤独な日々を過ごすことになります。
幽閉生活の中でも一家は家族団らんの時間を過ごすことができましたが、次第に状況は悪化していきます。
国王一家の脱出と逮捕
1791年6月、国王一家はパリ脱出を試みましたが、ヴァレンヌで捕まり、再びパリへと連れ戻されます。これが「ヴァレンヌ事件」で、国王一家の評判はさらに悪化し、国民からの信頼を完全に失いました。
1792年にフランス革命戦争が始まると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が広まり、テュイルリー宮殿は襲撃され、国王一家はタンプル塔に幽閉されました。
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タンプル塔での生活
(マリー・アントワネットから引き離されるルイ・シャルル Image supplied via Wikimedia Commons)
タンプル塔での幽閉生活が始まった当初は、家族でチェスをしたり、楽器を演奏するなどの時間もありました。食事の質も良く、生活は一定の安定を保っていましたが、1793年1月にルイ16世への死刑判決が下されると、家族は次第に引き離されていきます。
マリー・アントワネットも処刑され、家族はバラバラになってしまいました。
ルイ17世の悲劇
(牢獄に閉じ込められたルイ・シャルル supplied via legend from history)
長男のルイ・ジョセフは幼くして病死しており、次男のルイ・シャルル(ルイ17世)が王位継承者となりました。しかし、彼は革命派によって虐待を受け、家族と引き離され、タンプル塔で過酷な生活を強いられました。
ルイ・シャルルは、父ルイ16世の死後、タンプル塔の階下に移され、革命派による虐待を受けました。彼は殴られたり、罵倒されたりして、次第に衰弱していきました。
幼い彼は、虐待と精神的な圧力に耐え切れず、数々の苦しみの末に1795年、わずか10歳で亡くなりました。その最期は非常に悲惨なものでした。
マリー・テレーズの運命
長女マリー・テレーズは、弟の泣き声を聞きながら孤独な幽閉生活を送りました。彼女は、革命政府に弟の健康を心配する手紙を送るなど、必死に家族を守ろうとしました。
幽閉中の彼女の心の支えは、叔母エリザベートが残した編み物やカトリックの祈祷書でした。1794年に叔母もギロチンに処され、彼女はますます孤立していきました。
人質交換とその後の人生
(1796年、フランスを出発した直後のウィーンのマリー・テレーズ Image supplied via Wikipedia)
1795年、17歳になる直前に、人質交換で解放され、母親の故郷であるオーストリアに送られました。解放されたマリー・テレーズは、家族を失った悲しみとストレスから、一時は失語症のような状態に陥っていました。
しかし、彼女はその後も力強く生き抜き、1799年にはいとこのルイ・ドゥク・ダングレームと結婚し、フランスに戻りました。彼女は72歳まで生き、質素な生活を送りながらも、フランス革命を乗り越えた証人として、その生涯を全うしました。
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まとめ
革命勃発時、アントワネットの元には長女マリー・テレーズと次男ルイ・シャルルのふたりの子供がいました。しかし国王夫妻とともに子供達も幽閉され、ルイ17世は虐待の末むごい死を迎えることとなります。
家族が一人ずつ居なくなる中、長女マリー・テレーズは牢獄生活を耐え抜き、72歳まで人生を全うすることとなったのでした。
政敵の存在を知りながらも、王妃として舞い戻ったマリー。彼女が国民に慕われた理由は、心のどこかに痛みや恨みはあれど、誰よりも貧困や飢えに泣く市民の苦しみや怒り、苦労を誰より知っていたからかもしれません。
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