贅沢のかぎりを尽くし処刑されたフランス王妃マリー・アントワネット。数々の名言や名作に登場することで知られる彼女ですが、実際彼女の人生はどのような人物だったのでしょうか。この記事では、今更聞けないマリーアントワネットの生涯ご紹介します。
- 14歳でフランスへ嫁いだアントワネット、長い間子供に恵まれなかった
- 遊び癖は子供ができる頃には落ち着いたものの、ついたイメージは消せなかった
- 信頼は回復できず、革命派によって一家揃って逮捕、王妃自身もギロチンにかけられた
ルイ16世との結婚
マリー・アントワネットは名門オーストリアハプスブルク家の出身でありました。オーストリアとフランスの和解の印として嫁ぐことになったマリーは当時14歳。夫となるルイ16世もまだ15歳であり、2人が結婚したのは1770年のことです。
なかなか子供ができず
マリー・アントワネットは、自分に求められるのは「世継ぎとなる男児を産むこと」だとわかっていました。しかし、7年の間子供はできず、彼女が宝石や遊びに走ったのはこういったストレスのせいだともいわれています。王室の法廷はゴシップ好きで悪名高く、陰謀満ちるにベルサイユ宮殿以上のものはなかったのです。
実際はマリーの方に原因があったわけではなく、子供ができないのはルイ16世の肉体的な問題のためでした。手術を受ければすぐに治ったのですが、優柔不断な彼に心の準備ができたのは7年後。手術をしてようやくマリー・アントワネットは自分の子供をその手に抱くことができました。
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母となり
1781年マリーは念願の男児、ルイ・ジョセフを出産しました。
待ち焦がれたかのようにマリー・アントワネットは子供を溺愛しますが、厳格な王室の儀礼のために自身で世話をすることができないときもありました。しかし様子をみて彼女は子どもたちと一緒に、ルイが与えたベルサイユの小さな城、プチ・トリアノン宮殿へ移り住みました。
浪費癖は昔のこと?
一般的に浪費癖で名を馳せたマリー・アントワネットですが、派手な服も子供ができるまでのこと。歳を重ねるにつれ慎み深い服を着るようになっていっていました。
マリー・アントワネットは、ゴシップが大好きな廷臣たちの目、またフランス市民から王家が人気を失っているという現実の両方から逃げるかのように、牧歌的な (だけどわりと高価な) 第2の人生を満喫したのです。
失墜した信頼
マリー・アントワネットがフランスに到着した時、彼女は『フランス・オーストリアの平和の象徴』として暖かく迎え入れられ、人気のある王女だったのですが、若い時のゴシップは尾ひれを生み、
マリーの浪費グセと気まぐれ、わがままはフランス経済の破滅をもたらす
という格好のネタになっていたのです。ある意味不満のはけ口といいますか、16世はフランス王には珍しく愛人(愛妾)をもたなかったので、なんとも歯がゆい民衆の不満がすべて王妃に向いてしまった形でした。
国王一家の逮捕
1789年7月、王政に対する民衆の不満が爆発しフランス革命が勃発。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せ、子供を含む王族一家はパリへ幽閉されてしまいました。
手を貸したフェルセンは疑惑をそらすために、国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたのですが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局そのベルリン馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれたそうです。
過多な荷物はただでさえ足の遅い馬車をさらに遅らせ、逃亡計画を大いに狂わせたのでした。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻されてしまいました。
一家の終わり
このヴァレンヌ事件 (脱走事件) により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまいました。1792年、フランス革命戦争が勃発すると『マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしている』と噂が立ちました。おさえはきかず、8月10日パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃します。
マリー・アントワネットとルイ16世、そして子供たちはタンプル塔に幽閉されました。まもなくしてルイ16世は処刑されることとなります。
アントワネットの処刑
1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいました。乗せられたのは「動物用の荷車」。ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りにとらわれた市民からの罵倒が飛び交いました。
午後12時30分、マリー・アントワネットは革命広場のギロチンに連れて行かれました。
元王妃の頭が落ちた後、それを群衆に示し彼らは「共和国万歳!」と叫んだそうです。
まとめ
両家の友好の印として、14歳でフランスへ嫁いだアントワネット。しかし長い間子供に恵まれずドレスや宝石にうつつを抜かすことになります。
子供ができる頃には遊び癖は落ち着いていたと言いますが、信頼は回復できず、夫や子供と共に革命派によって逮捕され、王妃自身もギロチンにかけられることとなったのでした。
(1788年 マリー・アントワネットの肖像画)
そもそも、なぜ彼女がこんなにも恨みを買うことになったのかというと、一説には夫のルイ16世は歴代の王たちと違って、愛妾をもたなかったためだといわれています。それまでフランス宮廷では、王妃が冷遇され愛妾が宮廷で幅をきかせるのが一般的だったのです。
愛妾は、全ての憎悪のはけ口にもなっていたのですが、ルイ16世の場合は、王妃へ不満が集中する形となったのでした。はからずとも悲劇の最後を迎えることになったマリー・アントワネット。終わりが悲劇だったからこそ、彼女の名前は長く語り継がれることとなったのかもしれません。
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