物語の主人公は、まったく正反対の2人の姉妹。不満げにこちらを見つめる姉マルタと、後ろで主イエスの話しを穏やかにきくほがらかな妹マリア。ディエゴ・ベラスケスは彼独特の解釈と画法で、福音書に記された物語の1つをひとつのキャンパスに表現しました。神話と日常の融合、その中に秘められた数々のメッセージ。この記事では、この物語性に溢れた物語を解説していきます。
この絵画に秘められた物語
(ベラスケス画 マルタとマリアの家のキリスト)
まずこの絵にこめられた物語をみていきましょう。全景と後景に描かれた2人の若い女性は未婚の姉妹 、2人はドニャ・コンチータの召使をしている姉マルタと妹マリアです。
(姉 マルタ)
家を訪れた神の子イエスを見て、姉マルタは「ご馳走を用意しなくては」とバタバタ大騒ぎ、このシーンでは乳鉢でニンニクをすりつぶしていますね。姉の後ろにたつ渋い顔をした老婦人は料理のアドバイスをしているようにもみえますし、もっと努力をするようにと叱りつけているようにもみえます。
(妹マリアとキリスト イエスが2人の家を訪問した聖書の場面を表しています)
反対に妹メアリーは、イエスの足元に跪き彼の話しに耳を傾けています。
ご機嫌ナナメのマルタにキリストは
(主イエスの前に座り、熱心に話しを聞く妹マリア)
疲れた姉マルタは、何も手伝わない妹をみて怒りを露わにし、キリストに文句をいいます。「主よ、あなたはわたしの姉妹がわたしがひとりで給仕するのをお許しになるのですか。彼女がわたしを助けるよう申してもらえませんか」しかし、キリストからかえってきたのは意外な返事でした。
マルタ。あなたは多くのことを心配し動揺しているようですね。マリアはより良いものを選んだのだから、けして責められることではないのです。彼女ははとても思いやりがあり勤勉です。あなたもどうか物質的なことでなく、精神的なものを大切にしてください。精神的な栄養は人生の重要な部分なのですから
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マルタとマリアの家のキリストを、より深く読む
姉マルタと、妹マリアは聖書に登場する人物です。『マルタとマリアの家のキリスト』は、スペインの画家ディエゴ・ベラスケスによって、1618年に描かれた油絵です。
これはベラスケスがスペイン セビーリャに居た時の作品で、画家パシェコの見習い時代が終わってすぐの初期作品です。スペイン・ハプスブルク家フェリペ4世の手引きもあり、ベラスケスはまもなくスペインの宮廷画家となり、スペインで比類のない絵画の巨匠となります。
どこか緊張感のただよう、落ち着きのなさの正体
(新鮮そうな魚の描写)
この絵画の構成ですが、『ボデゴン (静物画の一種であり、日本語では厨房画ともいう)』の伝統を受け継ぎ、キッチンの場面を前景に、キリストが座する場面を鏡像として表現しており、明らかにオランダの芸術の影響を受けています。マルタのふっくらとした肉付き、テーブルの上におかれた魚にニンニク、卵、パプリカの静物画でさえ、北欧美術の例を思い起こさせ、しかもこの絵には奇妙な緊張感と落ち着きのなさが感じられます。
- 前景では、騒々しく果てのない仕事の様子が描かれ、
- 後景ではまろやかな光に包まれ、穏やかで穏やかな雰囲気を醸し出す
というイメージの対比にピリピリとしたものを感じませんか。
さらに後景に描かれた穏やかな風景は台所にある鏡に映し出されたものである、というところにも直視できない、じっと様子を盗み見るような複雑な何かが感じられます。
姉マルタと、妹マリアの描写にみえるもの
(姉マルタと妹マリアの対比)
マルタは明らかに不満な表情を浮かべ、仕事を続けるにもどこか上の空。メアリーが良い方を選んだことにすでに気づいているかのように、今にも泣きだしそうな、うっとりするようなまなざしをしています。
服装はどちらも控え目で、色も落ち着いており、派手さも宝石も装飾も一切ありません。これは2人の女性の率直さ、正直な性格と、何が適切かに対する彼女たちの感情を示しているといわれています。
描きこまれた静物の数々も、絵に大きな意味が
手前の右側のテーブルの上に、お皿に並ぶ魚、また別のお皿には卵が2個、そしてピッチャーがあります。ベラスケスは単に外見だけに注目するのではなく、これらすべてのオブジェクト (物体) の根底にある本質を描いているといわれています。
これらは純粋に装飾的な要素として描かれているのではなく、また単体で存在し孤立しているわけでもない。それぞれが他のものとリンクしており、全体を構成する重要な要素としてくみこまれているのです。このようにこれらの品々は、作品の調和と全体的なリズム、そしてその日常性と、ポエティックな雰囲気を構成するのに貢献しているのです。
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ベラスケスが愛した宗教画とは
(ラス・メニーナスのなかに書き込まれたベラスケスの自画像)
ディエゴ・ベラスケスは聖書の題材が大好きだったといわれており、ただカラヴァッジョやルーベンスとは違って、純粋な宗教的熱情というよりも、聖書や迷信に根ざしたものだったといわれています。
(ディエゴ・ベラスケス「聖母戴冠」)
現実を欠いたものを描写するというよりは、ベラスケスは『聖書を元にして、宗教的なテーマを日常性と神秘的な逸話の両方を取り入れる』描き方が得意でした。マルタとマリアの家のキリスト もそうで、ルカによる福音書に記された物語の1つを、ベラスケス自身が解釈したものです。
もてなす準備をすすめるのか、主の教えをきくのか
姉マルタの仕事の献身ぶり、妹マリアの祈りの熱心さ、その対比こそがこの絵画のテーマともなっています。マルタは同情を引くような顔つきをしており、後ろにいる老婆とは対象的に、彼女の赤い手にはすべすべとした若さが感じられます。彼女はその仕事に慣れておらず、やり方を教えられているのでしょうか。
うんざりしているのか、キリストに言われたことをうまく咀嚼できていないのか。彼女はそこから目をそらしているようにどこか上の空。ベラスケスは神聖的な出来事と、人生の日常的な出来事を上手に融合させ描いています。食べ物の鮮やかさに感じられるリアリズム、露わになった女性の感情、それでもマルタが彼をもてなそうと用意した料理は、私たちをキリストとの出会いに引き込んでいくのでした。
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まとめ
ベラスケスは不満気なマルタと、穏やかなマリアをわかりやすく描いています。と、ここまで、
- マルタとマリアの家のキリストに込められた物語
- ベラスケスが描いた宗教画の特徴
をご紹介してきました。一説によるとこの物語は、
- あれこれもてなそうとした姉マルタより、
- 主イエスの教えに真摯に耳を傾けた、マリアの心意気がすごい
ことを伝える目的があったのでは、といわれています。信仰心がなにより重視された中世では、こういった絵が好まれたのかもしれませんね。
あとがきにかえて
マルタ、マリア、2種類の反対の人物、あなたはどちらのことを思いましたか?究極のところ、マリアも彼女たちのままです。必ずしも相手を自分より優れていると考える必要はなく、自分を貶めるためのものでもありません。しかしマルタはそのほうがいいのではないかと、マリアになろうとする。それよりはむしろ、相手の価値であったり、神を前にしたときの自分の価値であったり、主によってもたらされるものを認識するのが大切だともいわれています。
(ちなみにフェルメールも同じ絵を描いています 上が働く姉マルタ、座っているのが聞き入る妹マリア)
このパターンは、家族の中でも、社会の中でもみることができますね。時に私たちはマリアのように何かを熱心に学び理解を深め、さらにそれを伝えるために奔走する。それ以外の時は台所や庭仕事、子供たちと忙しいマルタのようになることも多いでしょうか。
もし私たちがマルタのように感じるなら、私たちはマリアから何か学ぶことがあるのでしょう。もしマリアの気持ちがわかるならば、逆にマルタから学ぶべきことがあるのでしょう。この絵もなんとロンドン・ナショナルギャラリー展に来日するそうです。自分はどちらの気持ちを強く感じるのか、ぜひ考えながら鑑賞してみてはいかがでしょうか。
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