その美貌で多くの人々の運命を翻弄してきた、生まれながらの女王「メアリー・ステュアート」。生後すぐにスコットランド女王となり、一時はフランス王妃ともなった彼女は、なぜ処刑されることになったのでしょうか。
この記事では、最後まで周りを振りまわし続けた根っからの女王、メアリー・ステュアートが処刑されるに至った理由を追っていきたいとおもいます。
- スコットランド女王メアリー、フランスへ嫁ぎ王妃になるも未亡人となり帰国
- その後は恋人を次々にかえ、あげく邪魔になった旦那を殺害
- いとこのエリザベスの元へ逃げ込むも謀反を働き処刑されることとなった
恋多き女王
フランスへ嫁ぐも、夫のフランソワ2世は16歳で亡くなってしまいます。若くして、未亡人となったメアリーはスコットランドへ帰ると、すぐに新しい恋人と結婚しました。その「ダーンリー卿」との間に息子「ジェームス」を授かりますが、メアリーはそれだけでは満足しませんでした。新しい浮気相手ができると、夫を事故に見せかけて殺害してしまうのです。
「これで邪魔者はいなくなった」とばかりに、そのすぐ後にメアリーは浮気相手のボスウェル伯爵と結婚。しかし、このあまりに勝手なふるまいに、メアリーはスコットランド貴族の怒りをかうこととなったのです。『夫殺害の容疑』をかけられたメアリー・ステュワートは即座に投獄され「女王位」も剥奪されてしまいます。
スコットランドの玉座は、(前夫との間に生まれた) 1歳になる息子のジェームズが継ぐことになります。女王の座も亡くなり、投獄されたメアリー。これでようやく反省するのかと思いきや、メアリーは牢獄からさっさと逃げ出しイングランドに亡命してしまったのでした。
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イングランドへの亡命
メアリー・ステュアートが向かったのは、いとこであるエリザベス女王のいるイングランドでした。そもそもメアリー・ステュワートはヘンリー7世の血をひいており、「イングランドの王位継承権」も持っている人物でした。
この時、イングランド女王として君臨していたのは「エリザベス1世」ですね。
しかしエリザベス1世は、元国王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリン (色々あって王妃にはなったが)との子でした。 そんなエリザベスにとって、正当な血筋をもつメアリーはある意味、脅威でもあったのです。イングランドでは、元々「庶子の子」でもあったエリザベスではなく、メアリーを王位へつけるべきだと主張する一派もいたほどでした。
投獄されたメアリー
(投獄されたメアリーステュアート)
そんな出自の関係もあり、メアリーは「エリザベスは所詮庶子である」と散々バカにしていたのでした。しかし、そんな彼女がいきなり駆け込んできたのですから、エリザベスは驚愕したのでしょう、とりあえずメアリーを投獄することにしました。
さすが半世紀の安寧をもたらした女王エリザベス1世、いとこへの慈悲なのか、殺すことはせず、城を転々とさせつつもメアリーは、19年間幽閉されることになったのでした。
しかし、メアリーは感謝するどころか、スペインのフェリペ2世らとくんで、エリザベスの暗殺を企てるようになります。政敵を使って、陰謀を企てられたら自らの命さえも危ぶまれる状況に追い込まれたエリザベス。1587年ついに限界を感じたエリザベス1世は、政治への脅威を取り除くよう周りからも説得され、メアリーの処刑を命じたのでした。
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まとめ
フランスへ嫁ぎ王妃になるも、若くして夫を亡くしスコットランドへ帰ることになったメアリー・ステュアート。ダーンリー卿と結婚するも、他に好きな相手ができたメアリーは、浮気相手と組んで夫を殺してしまいます。
国の反感を一気にかうことになったメアリーは、いとこのエリザベス女王がいるイギリスへ亡命。しかし慈悲をもって迎えたエリザベスへに対しても暗殺未遂を企て、やむをえず処刑されることとなったのでした。
周りの者たちを手玉にとりしぶとく生きてきたメアリー・ステュアートですが、処刑される際もしぶとさを見せ、斬首人を困らせたというエピソードも残っています。晩年と処刑云々のエピソードについてはこちらの記事 (【メアリーステュアートの処刑失敗説】2度斧を振り下ろしても首は落ちなかった)にまとめております。
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