1984年の映画『アマデウス』は、モーツァルトによって人生を狂わされた男のお話。天賦の才をあたえられたアマデウス・モーツァルトと、彼を終生のライバルだと考えたアントニオ・サリエリ。
音楽家としての成功を約束されていたサリエリは、モーツァルトの才能に嫉妬し絶望してしまう。そしてその想いは結果的に彼を追い詰め彼を追いやってしまう、それでもどんなに羨み悪もうとも、彼の才能を誰よりわかり彼の音楽を愛していたのもサリエリだった、という物語です。
映画アマデウスは一部のスキャンダルを元にしたフィクションですが、一部あれが「真実」だと誤解をしている人も一部おられるのではないでしょうか。
かくいう私も文献を探らなければ「毒殺などありえず、むしろ経済的・社会的に成功していたのはサリエリの方だった」ことはわからなかったでしょう。この記事では、100年以上前にウィーン宮廷で活躍したアントニオ・サリエリの「真実の姿」を、イタリア・オペラ研究科著者の文献をもとにみていきたいとおもいます。
アントニオ・サリエリとは
オーストリアの宮廷音楽を支えた、イタリア人作曲家
(アントニオ・サリエリ)
サリエリは、イタリア レニャーゴ生まれの作曲家。オーストリア皇帝に支えた宮廷楽長であり、ヨーロッパ楽壇の頂点にたち、ベードーヴェンにシューベルト、リストら著名な音楽家ともかかわりがありました。そしてモーツァルトの遺作レクイエムを完成させたジェスマイヤー、モーツァルトの息子フランツにも指導をおこない、作曲家だけでなく広く高い名声を博しました。
あまり後世に名が知られていなかったのですが、1979年の戯曲、1984年の映画『アマデウス』により知名度があがりました。21世紀からは『音楽家』として再評価されるようになり、2009年からはサリエリの故郷 レニャーゴでサリエリ・オペラ祭が毎年開催されています。
サリエリの生い立ち
サリエリは幼少の御頃からチェンバロ、声楽、ヴァイオリンなどの音楽教育をうけ、誰より音楽を愛した人物でした。両親が亡くなり孤児となったあとは、北イタリアのパドヴァ、ヴェネツィアに住み、そこで作曲家ガスマンと出会います。彼の類稀なる才能を感じたガスマン、1766年にはフランツ・ヨーゼフの希望でふたりはウィーン宮廷へと招かれました。(ちなみに皇帝ヨーゼフはマリー・アントワネットの兄です)
その後サリエリはウィーンにとどまり、皇帝ヨーゼフによって1774年に宮廷作曲家になります。1788年には宮廷楽長となり、亡くなる直前の1824年までその地位にありました。
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モーツアルトとの対立は、どこまで本当か
サリエリを襲ったスキャンダル
1820年代のウィーンでは「サリエリがモーツアルトから盗作した」「毒殺しようとした」といったスキャンダルが飛び交っていました。しかし実際にはなにも実証されておらず、ロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ音楽派の対立のなかで、宮廷楽長を長年独占してきたサリエリがターゲットにされたためだといわれています。
モーツアルトも「ウィーンで自分が高い地位にいけないのは、サリエリが邪魔をするためだ」と主張していたそうです。それにしても映画アマデウスのように、彼が精神病院にはいり、モーツアルトを死に追いやったと告白する場面は事実無根でした。たしかに彼は入院した事実はありましたが、それは痛風と視力低下がもとでおったケガのせいでした。
モーツアルトの息子が、毒殺説を完全否定
(モーツアルトの四男 フランツ・クサーヴァー・モーツァルト)
そもそもモーツアルトの死因は、リウマチ熱と肺の感染症を併発して腎不全を起こしたためだったといわれています。半身が麻痺状態だったモーツアルト、1829年に出版された『モーツアルトの巡礼の旅』には、彼は毒殺されたのだとされ、レクイエムを発注した謎の人物か、サリエリによるものではないかという記述が残っていました。
しかしこれは、モーツアルトの末っ子であるフランツ・クサーヴァー・モーツァルトにより完全に否定されています。
晩年身体的にも弱っていたサリエリは、弟子のモシェレスに「わたしはやっていない」と訴えますが、逆に疑念を呼び、結果日記には「彼はモーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまい….. ロッシーニからも「モーツァルトを殺したのか?」と疑われ、身に覚えのない噂に心をいためていたといいます。
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結局なにが真実だったのか
研究のもとでわかってきた『サリエリという人物』
実際のサリエリは、経済的にも成功しており、事前活動にも熱心でした。弟子から謝礼をとることもなく、それどころか才能のある弟子や、生活に困った弟子には支援を惜しまなかったといいます。
モーツァルトのミサ曲もたびたび演奏し、とくに『魔笛』をたかく評価するなど、モーツァルトの才能をみとめて、親交をもっていたことも明らかになってきました。
1791年にはモーツァルトの葬儀に参列、1793年にはスウェーデン男爵の依頼により、モーツァルトの遺作『レクイエム』を初演しました。
サリエリは本当に嫉妬に苦しんだのか
(バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年)モーツァルトの死後に想像で描かれた)
サリエリがウィーン宮廷に入る前、モーツァルトは既に皇帝フランツ・ヨーゼフに謁見していました。皇帝の母マリア・テレジアも彼の演奏を称賛しましたが実りはなく、翌年モーツァルトが望んだポジションについたのはサリエリでした。
サリエリがフランシス大公の結婚を祝うために描いたオペラは、初演の年から19世紀初頭までの間にウィーンで100回以上演されています。これは異例のことでした。一方、モーツァルトは借金も抱えて、あまり豊かとはいえない生活を強いられていたのです。
社会的・経済的観点から誰かを羨ましく思うのであれば、モーツァルトからサリエリにであって、その逆はない、というのが専門家の見解です。ただモーツァルトが天賦の才をもっていたのは誰の目にも明らかであり、音楽家なら誰もが意識せざるを得なかったのは事実だったようです。
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まとめ
(アントニオ・サリエリ)
モーツァルトの音楽誕生にはいくつかの偶然が重なったと言われております。
- 神が与えたその才能、
- 幼くしてヨーロッパ各地の音楽を吸収できた環境、
- そして音楽家であった父レオポルトの存在ですね
モーツァルトの全曲録音が数種類も世に出ているのに対して、メインのオペラ作品でさえ録音はまとまって存在しないのが、サリエリの悲劇だったのかもしれません。それだけでなく、現代に至っても無実なのにあらぬ噂をたてられているのですから。
やや駆け足の人生だったかもしれませんが、人類にかくも美しい音楽をのこした天才アマデウス・モーツァルト。『凡庸の代表であった』と揶揄されるサリエリですが、功績などを見ているとまったく違う姿がみえてくるものですね。
どちらの立場にたって考えるかで解釈は変わるものですが、どちらもとても魅力的な人物だなとおもうのでした。たとえ対立があったとしても、それは彼らどちらもが音楽を心から愛していたからなのでしょう。
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