今日でも世界にナポレオンの崇拝者は多いといいます。
ナポレオンに関する伝説が現代まで数えきれないほど残っているのは、彼がコルシカ島の一介の小地主の子に生まれながら、人心を魅了し、また恐れられ、成功と失敗を繰り返しながら送った波乱の生涯への一種の共感のためでしょう。この記事では、90年代後半から脚光を浴びることとあったナポレオンの暗殺説についてみていきます。
皇帝、ナポレオンの不可解な死
交互に襲う睡魔と不眠、脚のむくみや体毛の欠落、肥満など、晩年のナポレオンをおそった症状は、慢性のヒ素中毒の症状とそっくりでした。事実、解剖の時に2人の医師が、遺体の肝臓が異常に肥大していることを確認しています。ヒ素は、ナポレオン時代のフランスではけして珍しくない毒薬でした。殺鼠剤としてどこにでも売っていましたし、味も匂いもないので簡単に食事に混入させることがでるとしてひんぱんに用いられていたのです。
何年という時間をかけてヒ素を飲ませていけば、慢性ヒ素中毒の症状はごくふつうの病気の症状と似ていきます。それは下剤と催吐剤を一緒に飲ませれば確実に死を招くものでありました。しかも下剤を用いているために死体が解剖されても遺体にはヒ素の痕跡は残らないという、優秀な毒薬であったのです。
慢性ヒ素中毒者と類似の症状
当時の医者はいろんな病気に、下剤 と催吐剤を処方していましたから、犯人は自ら手を下し同時に証拠を消し去るという、いわば完全犯罪を行うことが可能だったのです。
ナポレオンが胃癌で亡くなったとする説もありましたが、これにも疑問がもたれていました。もし本当に胃癌を患っていたならば、病気が重くなるにつれて痩せていくはずなのに、ナポレオンは最後まで肥満する一方だったのです。慢性ヒ素中毒者には、肥満がつきものとされていました。
はてさて、こうなるとナポレオンは自然死ではなく、毒殺されたのではないかという説が浮かび上がっています。解剖記録や、医師アントマルキの患者日誌、従僕頭のマルシャンによる病人の容態にかんする詳細な記録。これらを統合すると、晩年のナポレオンにはヒソ中毒の30の兆候のうち、少なくとも22が見受けられたのでした。
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科学的な根拠
しかし今日ナポレオンの遺骸はパリの廃兵院のなかにある墓地に眠っています。さてこの仮説はどう確かめたらいいものか、そこでヒントとなったのがナポレオンの毛髪でありました。 18世紀当時、しばしば髪の毛は高名な人物の形見がわりとなっており、ナポレオンも自分の髪の毛をたびたび人へ与えていた というのです。
髪の毛は体内のヒ素量をはかるのに、もってこいの材料でありました。というのも、生体はヒ素をまず髪の毛から体外へ排出しようとするからです。パリのナポレオン研究会の主要メンバーであるラシュック司令官の行為で、ナポレオンの髪の毛が提供され、グラスゴーのスミス教授が髪の毛の鑑定を担当することとなりました。
鑑定の結果、「髪の毛1グラムにつき、10.38マイクログラムのヒ素が含有されている」ことがわかりました。つまるところ、被験者 (ナポレオン) が比較的大量のヒ素にさらされていたということを科学的数値が示したのでした。
ナポレオンの毛髪から、平常値の13倍のヒ素が検出
この数値がどれほどすごいかというと、現代において人間の毛髪が含ありするヒソの平常値は1グラムに約0.8マイクログラムほどなのです。当時環境の中にあったであろうヒ素の量はもっと少ないことを考えると、ナポレオンの毛髪から検出されたヒ素は平常値の13倍という異常なものでした。
証拠はたった1本の髪の毛であることから、これは外部から汚染されたものではないか (後世においてヒ素が付着したのではないか)といった声もあがりましたが、鑑定を引き受けたスミス教授は「外界からのヒ素であれば全く違った反応を示す」と否定し、「このヒ素は体内から髪の毛にはいったものだ」と断定したのです。
それは本当にナポレオンの髪の毛だったのかという声も出ましたが、一般募集で提供を募った、別人がもつ「ナポレオンの髪の毛」ですでに再検証が行われています。そちらの髪の毛も平常より高いヒ素を有しており、長きにわたりヒ素が体内に取り込まれていっていたことがさらに証明されたのでした。
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絞られる容疑者
また、ナポレオンの側近が書き残していた記し物をみると、亡くなる7ヶ月前からナポレオンは6回も急性中毒症をおこしており、その間に慢性ヒソ中毒の症状がつづいていたことがわかりました。ナポレオンがセント・ヘレナに流されれた1815年の翌年には、早くも彼の体内にはかなりの量のヒ素が取り込まれていたのです。
ナポレオンがヒ素でよって毒殺されたことはもはや疑う余地がなくなったわけですが、となると問題は誰がナポレオンに手を下したのかです。別館に住んでいたイギリス人監視、途中でセント・ヘレナ島を離れた部下。ずっとあとに島へとやってきたアンマトンマルキ医師は除外するとして、容疑者は士官のモントロンと銃僕頭 (給仕も担当) のマルシャンの可能性が高くなりますが、2人は家臣のなかでもとくに主君に忠実な2人でした。
元貴族の側近、モントロン士官
後者のマルシャンはすでに10年ほどナポレオンに使え、その母もチュイルリー宮殿で働いていたのに対して、モントロン士官のほうは奇妙な点が多々見えてきます。まず彼は旧貴族の出身であり、士官ではあれど職場でめぼしい働きはとくにみられませんでした。またナポレオンが退位してエルバ島に流されたときにはブルボン王家に取り入ろうとするなど、王党派との縁がずっと深かったのです。
記録によると、モントロン伯は、酒蔵係でワインを貯蔵する蔵の鍵をもっていました。ナポレオンはいつも自分専用の酒を専用の瓶から飲んでいたわけですが、ワインは缶詰でロングウッドにとどきビンに詰め直されていました。そのときに酒蔵係が毒を樽に入れるのはごく簡単にできたでしょう。
怪しい酒蔵係、葡萄酒樽への混入
それは食べ物に毒を入れるより簡単で、樽ならば何ヶ月分もの毒を一度にいれられるのです。ナポレオンは食事のときに口にするワインの量はほぼ決まっていましたから、飲む毒の量も前もって推測することができたでしょう。
こう仮定すると手を下したのはモントロンとしても、実際に命令を下していたのは、以前にもナポレオンをなんどか暗殺しようと試みていたアントワ伯 (シャルル10世) であろうことが想像できます。
モントロンは、アルトワ伯のコネで第一王政復古後、将軍の地位についていました。しかし配下の兵隊に支給する給金を横領するという不始末をおこしていたのです。有罪になれば監獄入りのはずですが、奇妙なことに軍法会議にすらかけられていませんでした。モントロンとアルトワ伯の間で黒い密談がおこなわれていたのかもしれません。
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ナポレオン暗殺説
1994年、ルネ・モーリが「ナポレオン暗殺」論を出し、一代スキャンダルが巻き起こりました。彼はモントロンがナポレオンを毒殺したという説をあげ、さらにモントロンにはいくつかの点でナポレオンに恨みを抱いていたというのです。
1812年にはナポレオンが反対する結婚を押し切ったことで怒りをかい、くびにされていたモントロンが、なぜワーテルローの敗戦後、なぜいきなり馳せ参じて没落に転じた皇帝のそばに付き添ったのか。実際のところ、モントロンは部下の給金横領事件でもはやフランスにいられない状況に陥っていたのです。彼は債権者に追いかけられ、一刻も早く身を隠さねばならない立場にあったのでした。そうして逃げるように行き着いたのが、セントヘレナへと流されたナポレオンの元だったのです。
皇帝ナポレオンの死
当時邸宅内にはねずみが大量に発生し、壁や床には穴が空き、食べ物は食い荒らされる事態が多発していました。当時、鼠対峙につかうものといえばヒ素でありました。邸宅の管理責任者だったモントロンがヒ素を購入するのに、正当な理由ができたわけです。
さらに好都合なことに、ナポレオンが食事に出る葡萄酒がまずいと訴えたのです。モントロンは、ナポレオンのためだけに、南アフリカ ケープタウンのコンスタンスという葡萄酒を用意しました。偶然に巧みな誘導が重なり、毒殺の対象をナポレオンだけに絞ることができたのです。ナポレオンはいわば革命によって、モントロンの属していた貴族社会を破壊しようとしたわけですが、ナポレオンを殺すことによってモントロンは”フランス革命”をも殺そうとしたのかもしれません。
結局1821年5月5日17時9分、ナポレオンは苦しみの末に息を引き取りました。
殆ど腐敗していなかった遺体
それから19年後の1840年に、国王ルイ・フィリップはナポレオンの遺骨の故国送還を命じました。このとき、ナポレオンの流刑生活をともにした側近たちは、失明し身体が不自由になっていたラス・カーズをのぞいて全員がセント・ヘレナに駆けつけたといいます。しかしモントロンがその地に赴くことはありませんでした。彼はナポレオンにもっとも信頼されていた人間で、遺産の大半の受益者であったにもかかわらず….
このとき掘り出されたナポレオンの遺骸は、殆ど腐敗しておらず目撃者たちを驚かせました。
これも、ヒ素による毒殺の特徴のひとつだといいます。
意味深な言葉
ちなみに皇帝の亡くなった様子が素描されたクロッキーに、皇帝の死に居合わせた16人の署名が残っていますが、モントロンだけは署名ではなく次のような言葉を残していました。
“わたしが彼の目を閉じた“と。
実際に死んだときにナポレオンの両眼を閉じたのは、アントンマルキ医師でありました。なぜモントロンはこんな不可解な言葉を残したのでしょうか。モントロンが何を思いこの場に居合わせたのか。真意はおいておいて、”忠実な忠臣”を演じ続けた彼は、その後ナポレオンの遺産の一部を相続しますが、結局は使い果たしてしまうのでした。何百年もたった今となっては、ついに彼の真意を確かめる術はないのでした。
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まとめ
フランスでは、ルイ14世の時代にも毒殺が横行していました。その時代に悪名を馳せたのが毒殺魔ブランヴィリエ公爵夫人です。彼女はその時代において、愛人のサント・クロワと手を組み、父や弟たちを遺産目当てに毒殺していきました。実行に移す前には、慈善病院の患者たちを見舞い、毒を混ぜた菓子や葡萄酒を与えてはその効果を確かめていたといいます。
実はモントロンも、彼女に関する書物を読んでいたことがわかっています。その書物には、実際に彼女が用いた毒薬の処方も書かれていました。ナポレオンの側近の大半も原因不明の身体的不満を訴えており、大事には至らなかったものの、ブランヴィリエ公爵夫人のように実験を試みたという可能性も考えられます。
モントロンが毒殺の犯人という説はもはや推測でしかないのですが、いずれにせよ、ナポレオンが誰かの毒牙にかかりヒ素を大量にもられていたという事実は変わりないのでした。
栄華を極めた英雄、カリスマ君主と呼ばれた皇帝ナポレオン。最も信頼していた側近に命を削られ続けていたのだとしたら、なかなかに無念な最後であったといわざるをえないのでした。
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