コミックス全20巻までの全世界での累計発行部数が2500万部を超えた「約束のネバーランド」。「孤児院で幸せに育てられていた子どもたちは、実は食用児として鬼に献上されるために飼育されていた」という 衝撃的な作品に影響を与えたと言われる作品があるのはご存知だろうか。
カズオ・イシグロ原作の映画『わたしを離さないで (Never Let Me Go)』。寄宿学校の子供たちは臓器提供のためだけに育てられており、来たる『提供の日』を待ち、数度の手術の末『終了』のレッテルを貼られるまで臓器提供を続ける運命にあった。
終了とはすなわち死を意味しており、出来うる限りの臓器提供を終えた子供たちは寿命をまっとうすることなく『始末』されていくこの衝撃作。今日はこの衝撃作のあらすじをご紹介したい。
わたしを離さないでのあらすじ (ネタバレあり)
寄宿学校で養育される子供たち
(孤児院であり寄宿学校 ヘールシャム)
「1952年 不治とされていた病気の治療が可能となり、1967年人類の平均寿命は100歳を超えた」1978年、手術室の前でキャシーが思い出すのは緑豊かな自然に囲まれた寄宿学校ヘールシャムだ。
キャシーとルース、トミーの3人は幼い頃から一緒に過ごす。外界と完全に隔絶したこの施設にはいくつもの謎があり、外で生徒が殺されたり餓死したという。「保護官」と呼ばれる先生に物事を教わり、自分を表現する唯一の術として絵や詩の創作が重要視され作品は「マダム」のギャラリーに送られていた。
告げられた残酷な真実
(ヘールシャムでおこなわれる授業の様子)
学校では、頻繁な健康診断や買い物の練習も行われる。キャシーはトミーからミュージックテープをもらい、その中の曲“Never let me go”を聴く。学校にはあたらしくルーシー先生が赴任してきた。彼女は何も知らずに過ごす子供たちを見てやりきれない思いを抱え、愛情をもって生徒に接する。
そして明解な説明がなされてないことに異議をとなえ、自分の運命を知ることでせめて生に意味を持たせたいと子供たちへ本当のことを告げる。「あなた方の人生はすでに決められている」「中年になる前に臓器提供が始まる」「大抵は3度目か4度目の手術で短い一生を終える」、しかし本当のことを告げたルーシー先生は校長によって辞めさせられるのであった。
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提供者と介護人
1985年、18歳になった皆は各々の施設へ別れていくのだが、3人はコテージと呼ばれる場所で共同生活を始める。恋人同士となったルースとトミーの傍で、キャシーは孤立していく。
他から来たクリシーとロッドにより彼らは「それが本当の恋でありふたりに愛があれば、提供が猶予される」という噂を知る。ルースは噂を信じて、ギャラリーに絵を提出していなかったことを悔んだ。一方キャシーは『介護生』を申請してコテージを出ていき、ルースとトミーも別れ3人の関係は断ち切られた。
『介護人』は、臓器提供者の面倒を見るのが仕事である。しかしその役割を担ったからといって、『提供』が猶予されるわけでもなく、日々弱っていく提供者 (仲間) の実態を見続ける残酷な仕事でもあった。
提供者たちの終了 (さいご)
終了はすなわち、「提供不可能な状態」を意味した。
優秀な介護人となったキャシーは、1回目か2回目の手術で「終了」になった人々との別れが辛くなる。そんな時キャシーはルースとトミーとの再会を果たす。
ルースがキャシーからトミーをとった形となりギクシャクしていた3人だったが、ルースは最後「嫉妬から2人を別れさせた」ことを謝り、「提供猶予」が頼めるというマダムの住所を差し出すのだった。3度目の手術でルースは虫の息となり「終了」を告げられる。
ふたりはあの噂を思い出す、「愛がある2人には提供の猶予が与えられる….」。数年前からトミーが大量に描き始めていた絵を2人で持参し、マダムを訪ねるが、エミリー校長が出てきて今も昔も「猶予」はなかったし、絵は魂を探るためではなく、魂があるのかを知るためだったと告げるのだった。
トミーが「終了」して2週間後、キャシーにも1カ月後に『最初の手術』の通知がくる。自分たちと救った人の間に違いがあるのか、“生”を理解することなく命が尽きるのはなぜか、キャシーは自問するのだった。
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約束のネバーランドとの相違点
大人が告げる事実はとても残酷だ。寄宿学校をでたとして、生徒は何者にもなれない。「一生のうちに何回か提供する義務」があるのではなく「提供をして一生を終える」のだと。そうなるように管理され、それ以外の道は残されていない。壊れたパーツを埋めるためのスペアでしかなく、無慈悲な大人 (先生) たちは多額の寄付金をもらうために生徒たちを管理し続ける。
生徒たちを確認するために学校にあらわれる「マダム」、社会と一線を隔てた「寄宿学校」、生徒たちに心をいれる「新任教師」、壁の向こうに殺人鬼がいるとの噂で隔離され続ける子供たち。
約束のネバーランドはエマの屈託のない明るさで、ひたすらめげずに道を切り開こうと運命に争い続ける物語だが、「私を離さないで」には救いがない。むしろ必要なときだけ駆り出され、同じ『人間』に家畜のように管理され同情され『提供』を待つ日々より、幼いときに一瞬で鬼に食い殺されたほうがマシなのではないかとすら思えるのだった。
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まとめ
作中では、3回目の提供手術で殆どの提供者は「終わりになる」とされている。この「終わり」という表現が怖さを増長させる。一般的に命は「尽きる」ものだ。老いない人間はおらず、誰にもいつか必ず寿命がきてこの世から旅立たねばならない日がくる。でも提供者たちの寿命は、管理している外の人間によって決められるのだ。
提供という役割を果たしたら終わり。「死」ではなく「終わり」と表現するのは、あくまで提供者が『代替パーツ』でしかないことを強調しているようにもみえる。他者の命を貪り食ってまで生きたいと願うのか、しかし過去を振り返ると、植民地でも第二次世界大戦でも人間が人間を家畜のように扱う歴史はずっと繰り返されてきた。
実際環境によって、人間はどこまでも残酷なことができるというのは、ミルグラム実験でも証明されているのだ。ちなみに日本ではこれを原作として、綾瀬はるかと三浦春馬主演のTBSドラマ『わたしをはなさないで』が2016年に公開された。これは約束のネバーランドでも語られていたことだが、とにもかくにも、本当に怖いのは鬼や怪談ではなく、人間だという話なのかもしれない。
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