ルイ14世の芸術政策の最たるものといえば、ヴェルサイユ宮殿の建立でしょう。元々父ルイ13世の狩猟館を取り込む形で新たな館を建築したヴェルサイユは、『王権の偉大さ』を体現させたものでした。この記事では、自由な発想をふんだんに取り入れた太陽王の宮廷『ヴェルサイユ宮殿』をおっていきます。
王の居城
中世以前につくられた宮殿の特徴
ルイ14世以前の王の仕事は領地管理が中心で、そもそも『国家』と『王家』も分けられてはいませんでした。そのため宮殿に出入りするのは、王家の「家」の家臣であり身内が中心だったのです。国王一家は大広間で生活をして、面会が必要な場合人々は直接そこへ訪れていました。城館の中には寝室や小部屋、控えの間がありましたがその数や規模は宮殿により様々でした。
当時の宮殿の特徴は、有事の際には『防衛施設』となるよう高い塀で囲まれ、中央にあるドンジョン (主塔) とともに小塔が多く設置されていました。建物の内部も敵がはいれないよう幅の狭い螺旋階段が設けられており、居室の入り口も小さく作られていたのです。
しかし16世紀になると様子がかわり、領域国家の形成と集権化が推し進められます。官僚などの従来の家臣とは異なる専門的な役人や廷臣たちが台頭し、行政にかかわる資源も増えてい宮殿の規模は大きくなっていきました
君主の権力誇示のために荘厳な宮殿を建立
火薬の到来により攻防砲が導入され石を高く積み上げた城は、より実用的なものになりました。宮廷は『軍事施設としての要塞』と『宮殿』の分化がすすみ、ルネサンスの影響もうけ、以前よりも低く、しかし大きく優雅な国家の宮殿へと変貌していきました。
従来よりも広い領域を支配することになった君主たちですが、実際の支配力はそれほどでもなく、彼らはありとあらゆる手で君主権力の誇示をはかりました。ルネサンス『誇示文化』もかさなり、宮殿では『儀式』が重要視されるようになり、宮廷は『国家への宮殿』へと変貌を遂げたのです。
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ヴェルサイユ宮殿
あたらしい宮殿にみられる特徴
新しい宮殿で重要となったのは、アパルトマンと呼ばれる一連の続き部屋でした。とくに君主の部屋は宮殿の最重要部分であり、ここには通常『玉座の間』と呼ばれる寝室と控えの間、その手前の護衛の間がセットとなり、かんたんには近づけないようになっていました。
また外国大使などの訪問時に『荘厳さ』がアピールできるよう、螺旋階段など見栄えの良い階段が施されました。大規模な祝宴や使節との謁見、祝宴や舞踏会など、あらゆる催し物のために豪華な大広間や回廊が整備され、天井には豪華な装飾が施されました。
次々に完成していく、理想の宮殿
内装に庭園の整備と工事がすすむなか増築が重ねられ、アルドゥアン・マンサールが建築家に任命されると、多くの家臣や王族が居住できるよう建物の南北に大翼棟を建設しました。1682年にはようやくルイ14世が居住、パリにかわって新たにヴェルサイユが首都として機能するようになります。
1684年には鏡の回廊が完成し、1687年には戦争の間と平和の間の装飾が完成しました。この後1678年にはあのマリー・アントワネットが愛したトリアノンの建築がはじまりますが、本館部分を最後にルイ14世の建築事業は終了となりました。
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ヴェルサイユ宮殿の画像と、知っておきたい知識
フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれるヴェルサイユ宮殿。ルイ14世をはじめとした王族とその臣下が共に住み、生活のすべてが『絶対王政』の実現のために利用され、臣下や貴族を縛るさまざまなルール、エチケット、マナーが生まれました。
宮殿の建設よりも労力が費やされた噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されました。そして、その噴水にはルイ14世の三つの意図が込められています。
- 水なき地に水を引く
- 貴族を従わせる
- 民衆の心をつかむ
『太陽神アポロンの噴水』はアポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水です。アポロンはルイ14世自身をあらわし、天空から地上の全てを従わせることを暗示しています。
野心家のルイ14世のもとではたくさんの戦争がおこなわれ、負傷をおった兵士の多くも宮殿の建設に携わりました。また宮殿の建設には危険もつきまとい、多くの死者が出るなど、それは簡単なものではありませんでした。絶対君主といえど、それだけの貴族と家臣を従わせるのは大変だったとして作られたのが『エチケット』と呼ばれる礼儀作法です。
シンプルな道具しかない時代に荘厳な宮殿を建築したルイ14世は、まさに『陳は国家なり』を体現した人物でした。権力を誇示するために様々な工夫が凝らされた森の中の宮殿、ぜひ訪れた際はそういった思惑や細かい趣向にも注目してみたいものです。
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