禁じられた愛はいつだってドラマを盛り上げるものですが、ザ・クラウンで描かれたマーガレット王女とタウンゼント大佐の恋に関する描写はどこまで正確だったのでしょうか。この記事では、イギリス王室によって徹底的に潰されたふたりの恋物語をご紹介していきます。
- 王女の初恋の相手は、父帝ジョージ6世の廷臣タウンゼント大佐
- タウンゼント大佐は妻と離婚を決め、王女プロポーズするも周りは大反対
- 即位したばかりの姉の状況も相まって、二人は認められず別れるに至った
秘密の恋
(タウンザンと大佐とマーガレット王女)
姉エリザベスだけが知っていたふたりの関係が公けになったのは、1953年、女王の戴冠式でのジャーナリストの勘付きがきっかけでした。
ジャーナリストは、マーガレット王女が故父ジョージ6世が信頼をおいていた、イギリス空軍大佐のピータータウンゼントの制服から綿毛をとるのを見て、2人が親しい関係にあることに気がつきました。やがて証拠を掴んだメディアは、ふたりの恋を元英国王エドワード8世退位以来、最大の王室スキャンダルとして世界中へ報道したのです。
タウンゼント大佐が独身であれば、王女の恋は大勢から祝福されることになったでしょう。しかしタウンゼント大佐は既婚者であり、ふたりはいくら思い合おうとも「不倫」でしかなかったのです。
深まったふたりの仲
その時すでに、ふたりの仲は親密なものになっていました。
それは、マーガレットの父親でるジョージ6世が崩御して間もないときでありました。それはつまらり、姉エリザベスが戸惑いながら、女王に即位したばかり頃でもありました。周りはどんどん忙しく変わっていっていたのです。
そして、自らの立場も変わっていく中で、マーガレット王女は悲しみに打ちひしがれ孤独になっていきました。そんなときマーガレット王女を支えていたのが、タウンゼント大佐でありました。彼は、母方の家の会計監査役に任命され、2人の仲はさらに深まっていくことになったのです。
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離婚を決めプロポーズするも
(タウンゼント大佐とマーガレット王女)
1953年になると大佐は離婚を決め、22歳だったマーガレット王女にプロポーズしました。
マーガレットは嬉々として姉エリザベスに報告しますが、事はそれほど単純ではありませんでした。1772年の王立結婚法の下では、25歳未満の場合、結婚するには君主の同意が必要。つまりいくら、いくら本人が望んでも、女王の許可がなければ結婚できなかったのです。
さらに離婚経験のある大佐と王族の結婚は容易なものではなく、即位したてのエリザベスにとって、とくに彼女の廷臣たちにとってこれは大事でした。そのため、姉エリザベスはことを荒立てないよう後回しにしつつ、妹に少し待つよう頼むことになりました。
周囲の大反対にあって
妹のことは応援したい
でも、離婚歴のある男性との結婚は許されるのでしょうか
この問題は王室だけでなく、内閣や英国国教会も絡む大問題となりました。
いまでは離婚が許されるようになったイギリス王室ですが、当時は想像もつかないほど厳しいものだったのです。英国国教会は断固として反対、内閣もこの結婚の承認を拒否すると述べ、女王は頭を抱えることとなりました。
そこで、当時首相を務めていたウィンストン・チャーチルはこう提案したのです。
少なくともマーガレットが25歳になるまで待つべきです。
女王の同意なしに結婚できるようになるまで、タウンゼントを遠くブリュッセル (ベルギー)へ異動させてはどうでしょうか
しかし、たとえ25歳になって結婚が承認されたとしても、これには厳しい条件がついていました。
タウンゼント大佐と結婚した場合、王女は「王位継承権」と「王室からの収入」を一切放棄しなければならないというのです。しかし3年後にくるだろう明るい未来を信じて、泣く泣く王女は条件をのみ、タウゼント大佐はベルギーへと旅立ちました。
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叶わなかった結婚
(マーガレット王女)
結論からいうと、ふたりが結婚することはありませんでした。
ふたりの恋はけして歓迎されることはなく、母のエリザベス王太后すら冷淡な態度。マーガレット王女に同情的だったのは、その恋の始まりから知っていた姉のエリザベス女王だけでありました。
ただし、その女王も2人の結婚を願っていたわけではなく、2人が納得して穏便に別れることを望んでいたといわれています。これはおそらく、姉としてでなく「女王」としてですね。
1955年10月31日、クラレンス・ハウス宮殿で王女は大佐と会うことを許され、それが2人の別れとなったのでした。もう無理だと悟ったのか、運命のに再び巡り合ったのか、タウンゼント大佐は、1959年に、王女似のベルギー人女性と結婚することを王女へと手紙で伝えるに至ったのです。
大佐との別れ
王女の心の痛みは計り知れないものでありました。
マーガレット王女の叔父は、愛する女性と結婚するために、玉座を捨てたエドワード8世ですね。王女も叔父のように、「愛」か「王室人としての立場」かを選択しなければならない場面に直面したわけですが、彼女は後者を選んだのでした。
離れ離れになってから2年、ついに王女は大佐との別れを発表しました。言葉の節々に彼女の辛さや痛さ、苦しみが現れており、それでも王室人として女王を支えていくと決めた彼女の決意が見て取れる声明でありました。
私は、ピーター・タウンゼント大佐と結婚しないことを決めました。
王室の相続権を放棄すれば、普通の結婚ができることは知っています。
しかしキリスト教の結婚は不滅であるという教会の教えを心に留め、連邦に対する私の義務を重んじて、私はこれらを何より優先する決意をしました。
私は一人でこの決断を下しましたが、グループキャプテンと呼ばれたタウンゼン大佐のたゆまぬ支持と献身に支えられていました。
マーガレット王女のその後
(マーガレット王女と夫アンソニー、その子供たち)
マーガレット王女が一般男性との婚約を発表したのは、そのすぐ後のことでした。
相手は、写真家の一般男性アンソニー (後のスノードン伯爵) 。これはタウンゼント大佐が別の年下女性と結婚したことに対する当て付けであり、衝動的な結婚であったとも囁かれました。それでも夫婦は、デイヴィッド、サラという2人の子供にも恵まれることとなったのでした。
しかしファッション業界にいたことも影響してか、元々アンソニーには派手な遊び癖がありました。薬物乱用や、派手な女性関係、同性愛関係などが次第に浮き彫りとなり、浮き沈みの激しいマーガレットとの結婚生活もうまくはいきませんでした。
お互いに不満を募らせた2人は結局離婚に至り、1978年に離婚が成立。イギリス王室としては国中を巻き込んで離婚裁判を起こしたヘンリー8世以来の離婚でありました。
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まとめ
マーガレット王女が恋焦がれた、ピーター・タウンゼント大佐。
ふたりは次第に親しい仲となりますが、「王女」の立場はけしてそれを許しませんでした。大佐は22歳のプリンセスにプロポーズしますが、周囲は大反対。女王に即位したばかりの姉の状況も相まって、ふたりの関係は認められず別れるに至ったのでした。
アンソニー自身は地位もなく、半ば王女を利用する形で結婚に至ったといわれています。彼の出自や行動範囲を調べた王室側はかなり懸念していましたが、大佐の結婚を知って衝動的になり、また2度と他人に邪魔をされたくないというマーガレット王女の強い決意で結婚は遂行されたのでした。
マーガレット王女といえば、「王室のしきたりを守りなさい」とダイアナ妃を責め立てたことでも知られていますが、それは自身想いを捨てて王室に尽くしてきたプライド、自分にはできなかった悔しさがあったからなのかもしれません。
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