純中満帆にみえた画家の人生に、大きな影がチラつき始めた。こちらの記事に続く、後編です。
レンブラントの信用を大暴落させた、女性スキャンダル
乳母のヘールチェ・ディルクスを愛人にするが
ティトゥスの乳母としてレンブラントに雇われたヘールチェ・ディルクス。ティトゥスを我が子のように可愛がり、また彼も彼女にとてもなついていました。次第にレンブラントは彼女に興味をもつようになり、モデルをお願いするようになります。言葉を濁しましたが、要するにレンブラントは彼女の肉体に魅力を感じ虜になってしまったわけです。乳母であり家政婦であった彼女はいつしか彼の愛人になっっていました。しかしオランダにはプロテスタントの考えが根付いており不倫はタブー。
(オランダの風車 1641年 エッチング 画:レンブランド)
ヘールチェは、レンブラントに結婚をせまりました。しかし「再婚したら前妻の遺産がつかえない」というお金事情もあり彼は結婚を渋り、結果的にののしりあうような関係にまで悪化してしまったのでした。ヘールチェはやむなくレンブラントの家を出て行くことになります。(この仕返しにとんでもないお土産をもってくることになるのですが…)
次の愛人は20歳年下の家政婦 ヘンドリッキェ
(ヘンドリッキェの肖像画 画:レンブラント)
1949年レンブラントは、新しい家政婦を雇いました。20歳年下のヘンドリッキェという百姓娘です。小柄ですが整った顔立ちで小太りではあれどヘールチェとちがい、心のやましい慎ましい女性だったといいます。とても働き者で日々しっかり家事をこなし、よくよく息子の面倒もみてくれる素晴らしい女性だったそうです。彼女もまたモデルをつとめるようになり、描かれたのがこの『水浴する女』です。
(水浴をする女性 画:レンブラント)
大胆な色彩対比と、絵筆の大きなタッチが特徴のこの絵、しかしこれをかわきりに2人は関係をもつようになっていきます。ただ遊び..というよりは、レンブラントは彼女を慈しみ敬愛していたといいます。
追い出されたヘールチェの逆襲劇
婚約不履行で訴えられたレンブラント
(画像:2番目の愛人となったヘンドリッキエ)
しかしそんな一見平穏にみえるレンブラント家に、「あの女」が戻ってきます。そう、乳母であり最初の愛人ヘルーチェです。彼女はレンブラントが新しい家政婦と関係を持つと知るや否や、「婚約不履行」で彼を訴えました。
私はティトゥルスが幼いときから我が子のように可愛がり、そしてこの方に尽くしてきました。掃除に洗濯、炊事に育児と一生懸命働きました。結婚してくれる約束でしたから肉体まで捧げたのです。それなのにあなたは私を裏切って、新しい女性がくるなり私をおざなりにしたのです
不倫というのはいつの世も、最終的に不幸しかうまないのですね。結局レンブラントは5年間彼女に生活費を払うことになりました。
ヘンドリッキエと結ばれて
(Bathsheba at Her Bath モデルはヘンドリッキェ 画:レンブラント)
1654年ヘンドリッキエはレンブラントの娘を妊娠しました。彼女はどんな思いだったのか、改革派教会評議会に身重の身体で出頭します。しかし幸いにも、彼女はレンブラントとの『無婚同居』を認めてもらうことができ、1663年に死ぬまで事実婚夫婦として一緒に暮らすことができました。(つまり正式に結婚したわけではないので、レンブラントは妻サスキアの遺産をつかうことができたのですね)
絵画の注文はパタリとやみ、ついに自己破産へ
画家のあくなき挑戦と、受け入れてもらえない葛藤
この頃から世間と、レンブラントの見解が分かれていきます。弟子のフリンクや、ボル・バックルは「依頼主の要求に十分答える肖像画」を描いていましたが、レンブラントは「自分の芸術の可能性」しか考えていなかったからです。
(レンブラント ヤン・シックスの肖像画)
高いお金を払って、意に沿わない肖像画がでてくるのですから、当然注文は減っていきました。もちろん彼の芸術を理解し、愛してくれる人たちもいました。貴族出身で実業家のヤン・シックスもそのひとりです。
負債を返済できず、レンブラントはついに無一文に
(3本の木、1643年 ダリッジ美術館 画:レンブラント)
この時期、第一次蘭仏戦争の勃発によりオランダは一気に不況に陥りました。彼に依頼をくれていた実業家たちもダメージをくらい絵の注文はさらに減り、弟子は減りお金ははいらない。なのに家の借金もかかえてまさに火の車。親しい友人から借金をするがそれでも足りない、結果としてレンブラントは資産を差し押さえられ、豪邸も集めたコレクションも、全てを失い無一文になってしまったのでした。
(レンブラントが描いたヤン・シックス)
スキャンダルを起こしても親しくしてくれていたあのヤン・シックスから借りたお金もかえせず、大切な友人さえも失ってしまいました。
レンブラントの大作『クラウディウス・キウィリスの謀議』
この絵に秘められた裏話
(1655年に描かれたレンブラントの自画像)
1655年のこと、「落成したばかりのアムステルダム新市庁舎に飾る絵を作成してほしい」と、レンブラントの弟子のホーファールト・フリンクに市から依頼がありました。
(レンブラントの弟子のホーファールト・フリンク)
依頼された絵の題材は「オランダの先祖バダヴィア人たちが首都クラウディウスに導かれて、ローマ帝国に反旗をひるがえす」という伝説です。オランダの誇りを表現してほしいとの依頼でした。しかしフリンクは絵画の下書きを書いたところで急死、続きはレンブラントに託されました。
アムステルダム市より、屈辱の返品
(クラウディウス・キウィリスの謀議、1661-1662年 画:レンブラント)
そして仕上がったのが大作『クラウディウス・キウィリスの謀議』です。この絵画はいちどはホールに飾られたのですが、数ヶ月後にこの絵はレンブラントの元へ送り返されることになります。再起をかけた画家にとってなんたる屈辱、
- 即興的な筆さばきが原因か、
- キルィウスの片目 (独眼) の表現が露骨だったのか、
- 荒っぽい厚塗りと、粗さのせいか
しかしそれはどれもレンブラントがこだわっていた部分でした。市からはなんの説明もなく、レンブラントは受け取らざるをえなかったといいます。もちろん代金も支払われず、レンブラントは借金を返済できぬままに、先妻サスキアの墓地までも売ることになったのでした。
レンブラントの晩年
寂しさのなかで
(大人になったティトゥス(享年26歳)画:レンブラント )
そんな屈辱的な出来事があった冬のこと。自己破産に追い込まれても一緒にいてくれた愛するヘンドリッキェが結核で亡くなります。サスキアと同じ病いでした。
その2月に息子ティトウスは結婚し、ささやかな結婚式をあげまた幸せな日々が戻ってくるかに思えたのですが….. 義理娘マグダレーナが妊娠して3ヶ月、まさかの愛息子もこの世を去ってしまったのでした。
それでも私は画家ですから
(レンブラントの自画像 1658年)
晩年のレンブラントは支えてくれた愛する者たちを次々と失いました。孤独のなかでもレンブラントは「それでも描かねば」と鏡をのぞきこみ、描いた自画像がこちらです。苦しみのなかでかすかに笑みを浮かべているのがわかりますでしょうか。つらく苦しく寂しく、もう笑うしかなかったのだとまるでレンブラント自身が語っているようです。
あとがきにかえて
(『放蕩息子の帰還』、1666-68年 レンブラント晩年の聖書画 )
若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖により自己破産。生前すでに著名で高い評価を受け、オランダには比類すべき画家がいないとさえいわれたバロック期を代表する画家レンブラント、亡くなる最期まで「自分の肖像画」を書き続けた光と影の魔術師。
彼が追い求めた芸術の極み、途中から注文が減ったのは「顧客の要望通り」ではなく、「彼の求める芸術」を突き通したからでした。その曲げない個性がなければ、彼の光がここまで輝くことはなかったのかもしれませんね。彼の描く圧倒的な光と影の明暗になにかを感じるのは、彼のすべてがそこに宿っているからではないでしょうか。
- ロンドン・ナショナルギャラリー展でみられる絵画
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