実際におきたなかで、最も有名な海難事故。映画でも話題をよんだタイタニック号は1912年4月15日に大西洋の海底に沈没し、乗組員や乗客を含む1,500人以上の死者を出しました。その悲劇は世界中に衝撃を与えました。タイタニックは今までで最大のクルーズ船であり、「絶対に沈まない」といわれた船だったからです。
今日でも、タイタニック号の沈没は多くの人々を魅了し続けています。いくつかの歪んだ小さな決断が、途方もない大事故につながってしまった。この記事では、不吉な航海前から、あの有名な悲劇まで、タイタニック号について、あまり知られていない5つの逸話をご紹介します。
造船中にも、多くの犠牲を出していた
タイタニックの悲劇は、航海に出る前からはじまっていました。
豪華客船タイタニックは、ベルファストのハーランドアンドウルフ造船所で建造されました。このプロジェクトはアイルランドにとって大きな仕事であり、男性を中心に何千人もの雇用を生み出しました。しかしそれには大きな代償が支払われました。
この時代は労働者の安全なんてものは考えられておらず、常に危険と隣り合わせでした。雇用者にとっては「とにかく船をつくりあげる」ことが重要だったのです。造船中に8人の男性が命を落としました。246人の男性が重傷を負い、その多くはベルファスト造船所でのことでした。また、タイタニック計画には何百人もの不法就労者が関わっていたとされ、亡くなった人のなかには名前が公式にあがらない人もいました。
12匹の犬が乗っていて3匹が生還
大勢の乗客と大勢の乗組員とともに、12頭の犬がタイタニック号に乗船しました。
そもそも犬と一緒に乗船できたのはファーストクラスの人々だけだったのですが、この犬たちは実に良い待遇を受けました。船には、”4本足のゲスト”用に豪華な犬小屋が用意されていました。タイタニック号に乗っていた12匹の犬のうち、生き残ったのは3匹だけでありました。
その中には、裕福な女性経営者とともに救命ボートに乗せられた2匹のポメラニアンも含まれていたといいます。そもそも1,500人以上の人間が救命ボートにさえ載せてもらえなかったにもかかわらず、ファーストクラスの犬が助かる、というのがいかにもこの時代の身分制度を反映しています。
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無視された、6回もの氷山警告
タイタニック号は沈没当日、氷山の警告を1回だけでなく、6回も受けていて (無視した) ことで有名です。これらはすべて届いてはいたものの、乗組員により警告は無視されてました。警告のなかのひとつには「タイタニック号は危険な水域に向かっている」と助言するものがありました。
蒸気船メサバ号は、タイタニック号が氷山に衝突するわずか3時間前にも、1度警告を出しています。警告文には「北緯42度から41.25度、西経45度から45.20度の地域では、多くの重い流氷と多数の氷山が見られました。天気は晴れです」と書かれていましたが、タイタニック号は 「ありがとう」 と答えたのみでした。キャプテン・スミスがこのメッセージを知らなかった可能性は極めて低い、といわれています。
展望台には、氷山を探す双眼鏡さえなかった
4月14日の夜、タイタニック号が氷の海に入ったとき、見張りは双眼鏡を持っていなかったことがわかっています。なぜこのような事件が起きたのかについては、多くの議論がなされ、悲劇の直後から徹底的な調査が行われました。
タイタニックでは、フランスのサウサンプトン出港直前に人事異動があり、ブレア二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことを、ライトラー一等航海士に申し送りせずに下船したため、双眼鏡は行方不明となり海上の監視は肉眼でされていたのです。
当直見張りをしていたフレデリック・フリートによれば、そのときも海面には靄が漂っていました。また、双眼鏡なしでは月のない星月夜の静まり返った海の氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときにはすでに手遅れだったとか。しかし氷山は10%程度しか海面にあらわれないため、双眼鏡があっても事故は起こっていたのかもしれない、ともいわれています。
消滅の日も遠くない
海に沈んだタイタニック号が見つかったのは1985年のことで、発見までには何年もかかりました。当初見つかった時は、生還した乗組員が示した最後の座標から約13マイルも離れていたといいます。タイタニック号は、確かに2つに分裂したいましたが、予想されていたより完全には沈んでいませんでした。
しかし船は水深3,700メートルにあり、巨大な水圧を考えるとタイタニック号が浮上する可能性は極めて低く。残骸も徐々に劣化していることから、崩れ永久に消滅してしまう日もそう遠くないといわれています。
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まとめ
タイタニックが沈没してから100年以上がたちました。
ちなみにタイタニックの被災者のなかで、最後の生存者は、2009年5月に亡くなりました。エリザベス・グラディス・ディーン(ミルビナとも呼ばれる)さんは、船が沈没したときわずか生後8週間でありました。彼女は両親と3等客として乗船。彼女らはこの船に乗る予定はなかったのですが石炭ストライキにより、最後の最後に旅行計画を変更してタイタニック号に乗ったのでした。
彼女と母親、兄弟はライフボートにのることができ生還することができたのですが、彼女の父が生きて戻ることはありませんでした。
多くの人の命だけでなく、多くの歴史的遺産をも海に沈めた悲惨な事故。もし見た目を害するなどいわずに救命ボートを人数分積載していたのなら。せめて双眼鏡がきちんと装備されていたら、警告をもっと真剣に聞いていたら。人間は痛みを伴わないと学ばない生き物なのでしょうか。小さな決断の積み重ねが大きな悲劇を生み出した例として、タイタニック沈没は後世にも語り継がれていくことでしょう。
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