連合軍の占領下となった日本では、戦争にかかわった政治家や軍人が次々と逮捕されていきました。そして1946年5月、『東京裁判』が開かれることとなったのです。
しかし実際A級戦犯となった人たちは何をしたのか、何の罪に処せられたのでしょうか。ある種、見せしめだったといわれる東京裁判についてみふれていきたいとおもいます。
結論ありきで進められた東京裁判
敗戦を迎え、連合軍の占領下となった日本では、戦争にかかわった政治家や軍人が次々と逮捕されていきました。そして1946年5月、極東国際軍事裁判、通称『東京裁判』が開かれることとなったのです。A級戦犯の容疑者として逮捕された者は100名以上、太平洋戦争開戦時の首相である東條英機 (とうじょうひでき)を筆頭に28名が起訴となりました。
戦争の事後処理として、軍事裁判が行われるのは当然として、東京裁判の内情は極めて異様なものだったといいます。
というのも、検察団はもちろん、中立であるべき判事も連合国から選ばれていました。また、法曹経験のない者や、法廷の公用語である日本語と英語どちらも使えない者すらいたといいます。これでは公平な裁判など出来るはずもないのですが、そもそも公平な裁判など行うつもりもなかった連合国側としてはそれでも構わなかったのでしょう。
裁判とは名ばかりの復讐劇?
裁判は、「日本の戦争指導者を有罪にする」という方針ありきで進められました。
日本側が有利となるような証拠、たとえば政府や外務省、軍部などの公的な声明や、中国大陸における排日活動の証拠などは、大部分が「証拠能力や重要性がない」というあいまいいな理由で却下されました。一方で検察側が提示する日本の戦争犯罪に関する証拠は、一般的に証拠能力が低いとされる伝聞の類であっても殆どが採用され、次々と有罪判決がくだされていきました。
このような様子から東京裁判は、裁判とは名ばかりの連合国による復讐劇だったともいわれています。しかし東京裁判の最大の問題点は、別のところにありました。
A級戦犯とは何をした人なのか
連合国は、戦犯をA級、B級、C級に分類していました。
この3つの区分は罪の重さではなく、適用する罪状で分けられたもので、
- A級は、平和に対する罪
- B級は、通例の戦争犯罪
- C級は、人道に対する罪
の容疑でありました。東京裁判で裁かれたA級戦犯の「平和に対する罪」は、一言で言えば侵略戦争を始めた罪です。しかし開戦時の国際法には、このような罪状は影も形も存在しませんでした。この罪状は、開戦前や戦時中は合法だった日本の戦争行為を裁く為、終戦間際に連合国によって大急ぎでつくられた「事後法」でありました。ちなみにじ「人道に対する罪」も同じです。
事後法がまかり通れば、社会は根底から覆されてしまいます。極端な話、じゃんけんにグーで勝った後、「じゃんけんでグーを出すのは禁止」という法律がつくられたために、そのじゃんけんの勝敗が無敗になるようなものなのです。
事後法は不当だと唱えた判事もいたが
もちろん現在の国際社会では、原則として、事後法の適用は禁止されています。しかし東京裁判ではこうした不当な罪状によって、28名のA級戦犯のうち25名に有罪判決がくだされ、7名が死刑に処されることとなりました。有罪にならなかった3名は病死などによる欠席で、事実上、起訴された者は全員が有罪となったといえるでしょう。
あまりに連合国側に傾いた判決に、異議を唱えた判事もいました。法廷で唯一国際法の専門家だったインド代表のラダ・ビノード・パール判事は、「事後法の根拠にならない」として被告の全員無罪を主張したのです。また、裁判の正当性を疑問しするアメリカ人政治家や弁護士もいましたが、結局、被告を戦犯とする決定路線は覆ることはありませんでした。
東京裁判を語るうえで、もうひとつ注目すべきところがあります。それは起訴された者のなかに、昭和天皇が含まれていないことです。東京裁判は日本の戦争指導者を裁く為の裁判です。大日本帝国憲法では『天皇』を国家と軍事の最高責任者と定めており、そうなれば真っ先に戦犯にされそうなものですが、戦犯の容疑者リストにも天皇は含まれていませんでした。
連合軍も悩んだ、昭和天皇の処遇
もちろん連合国の内部には、昭和天皇を裁くべきだとする意見は多かったといいます。また戦争末期のアメリカの世論調査では8割近くの国民が堪能の抹殺、処罰を望んでいました。しかしこれらの流れを断ち切った人物がいました。
それが、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーです。日本占領を現地で指揮したマッカーサーは、国民の天皇に対する感情や、国内の状況を目の当たりにし、46年1月、天皇を戦犯とすべきか判断を求められこのような見解を述べました。
天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を引き起こす。その影響はどれほど過大視してもしすぎることはない (中略) 占領を継続するには、占領軍の大幅な増強が必要不可欠となる。最小限にみても、おそらく100万人の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければいけなくなるだろう
この報告を受けたアメリカは事態を深刻に受け止め、天皇制を相続させることは、統治の円滑化に繋がるとして判断を下すことになったのでした。
自らの命を差し出した昭和天皇
もっとも、憲法上では国家と軍事の最高責任者ではありましたが、天皇は自分の意思を政治的決定の場には極力持ち出すことはなかったといいます。さらに原則的には、内閣や軍部の決定を承認するだけの「立憲君主」だったことから、そもそも天皇に戦争責任はないといった考え方もあります。事実、A級戦犯として死刑に処された東條英機は、「天皇は自分たちに説得され、厭々開戦を承認した」とはっきり法廷で証言しています。
しかし「戦争責任がなかった」という事実や周囲の意向がどうであっても、天皇は戦争の責任をすべて自分で受け止めるつもりであったといわれています。戦争終結から10年後、引退したマッカーサーは天皇と終戦直後に初めて面会したときのことを、当時の日本の外務大臣へ明かしています。天皇はマッカーサーに対して、こんなことを言ったといいます。
戦争の責任は全て私にある。私の任命するところだから、彼らには責任はない。私の一身はどうなろうとかまわない。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい
マッカーサーは人種差別的発想から日本人を見下しており、面会するまで天皇は命乞いをするだろうと考えていたというのは有名な話。天皇の誠実な態度を目の当たりにして、思わず敬服したといいます。ある種、ある意味では、この面会があったからこそ、日本という国は現在の形で存在しているかもしれません。
日本の降伏
話は前後しますが、日本の降伏の受け入れ方として、連合軍内でも様々な意見がありました。
イギリスのルイス・マウントバッテン伯爵は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていましたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えました。かつて、元部下のアイゼンハワーがドイツの降伏を受け入れるとき、ドイツではなくフランスの地で、報道関係者が誰もいない早朝に、ドイツの将軍らに降伏文書に調印させたが、マッカーサーはそれを全くの間違いと考えて、東京の地で世界のメディアが注目するなかで降伏調印式をおこなうこととしたのです。それがあの、戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式です。
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あとがきにかえて
東京裁判をわかりやすく描いているのが、山崎豊子の小説『二つの祖国』です。日系2世でロスアンゼルスの日本語新聞社の記者・天羽賢治を主人公に、太平洋戦争によって日米二つの祖国の間で身を切り裂かれながらも、アイデンティティを探し求めた日系アメリカ人たちの悲劇を描いた作品で、2019年には小栗旬が主人公を演じたことでも話題となりました。
テレビドラマでは、日本とアメリカの間で揺れ動きながら、通訳のモニターとして東京裁判を見届けた天羽健二の苦悩とともに、一方的に決まった方向へと進められていった東京裁判の内情がリアルに描かれています。
長い東京裁判が終わり、都合のよいように整理された判決文の翻訳にはいった天羽健二はこう言葉を漏らしました。
「あれは勝者のおごりと権力によって国際法が捻じ曲げられた、見せしめの判決だ」
歴史は勝者が記すもの、というのはいつの時代も変わらないわけですが、敗戦国が口を出すことなど到底できず、結果として残ったのは「勝者」の視点で記録されたものであり、実際の内情はもはや誰も知ることができないところにあるのかもしれません。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べ、有名になった。
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参考文献
- https://en.wikipedia.org/wiki/Hideki_Tojo
- https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
- https://en.wikipedia.org/wiki/Radhabinod_Pal
- https://en.wikipedia.org/wiki/Douglas_MacArthur
- https://history.state.gov/milestones/1945-1952/nuremberg
- https://werle.rewi.hu-berlin.de/tokio.pdf
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