ロマノフ王朝 最後の皇太子アレヴィッチ・アレクセイの短い人生は痛みと苦しみに満ちていたといわれています。彼は生涯を通じて、先天性疾患である血友病に苦しんでいました。母アレクサンドラ皇后は、唯一の世継ぎである彼の命を心配するばかりに『怪僧ラスプーチン』に心酔。
結果として国民や廷臣の反感を買い、皇帝ニコライ2世は一家惨殺に追い込まれてしまいます。この記事では、ロマノフ王朝最後の皇太子アレクセイと、ロマノフ王朝を不安に陥れた王室病にせまっていきたいとおもいます。
- 断絶の危機に瀕したロマノフ王朝に生まれた皇太子アレクセイ
- 喜びも束の間、間も無くしてアレクセイは大病を抱えていることが発覚
- 皇帝夫妻は神の如き人ラスプーチンに心酔、宮廷や国の信頼を失っていくこととなった
断絶間近の王朝に、待望の男児
1904年、ニコライ2世の妻でありロシアの皇后であるアレクサンドラが息子を出産したとき、宮廷は喜びと祝福に包まれました。断絶間近だった王朝に、奇跡的に男の子が生まれたのです。アレクサンドラ皇后は1895年から1901年の間に4人の女児を出産していましたが、末にうまれた男児アレクセイが『王位継承者』となりました。
「このような困難な時に、主が私たちに送ってくださったこの救いに感謝する言葉もありません」とニコライ2世は喜びを日記に記していました。しかしこのとき皇帝は、この幼き皇太子が困難を背負って、厳しい運命をたどることを知る由もありませんでした。
英国女王から受け継いだ『遺伝子』
「祝福して神に感謝するには早すぎた」と、歴史家で医者でもあるボリス・ナカペトフは自著 『ロマノフ王朝の医学の秘密』の中で述べています。すぐに医師たちは「皇太子が、皇后の遺伝子に眠っていた恐ろしい病気、血友病にかかっていることを発見した」と。
この先天性疾患、血友病は血が止まりにくくなることが特徴であり、小さな傷でさえ長きにわたり内出血をもたらし、ケガに至っては致命的なダメージを与えるものとなりました。
アレクサンドラは祖母である英国のヴィクトリア女王から遺伝子を受け継いでいました。女性は血友病の遺伝子を「運ぶ」だけですが、男性はそれに苦しむことになります。アレクサンドラにはなかった症状が、生まれた男の子アレクセイにはあらわれたのです。
血友病に苦しむ幼き皇太子
アレクセイの症状は生後数か月で発覚し、その後彼の生涯を苦しめることとなりました。皇后陛下のメイドであるアンナヴィルボヴァは、病気が悪化した時の様子をこう振り返ったといいます。
皇太子と私たちにとってそれは “終わりのない拷問” のようなものでした。彼は痛みでずっと叫んでいましたし、私たちは彼の世話をしながら耳を閉じなければなりませんでした。
皇太子アレクセイにとって最も耐え難い瞬間は、関節に血が染み込んだときでした。「止まらない血液が骨と腱を破壊して、彼は腕や脚を伸ばしたり曲げたりすることができなかった」とナカペトフ氏は語っています。
状況を改善するための唯一の方法は、マッサージとエクササイズでしたが、これにはさらなるケガや出血の危険も伴っていました。時としてアレクセイはまったく歩くことができず、使用人が彼を運ぶかたちで、公式行事などは成り立っていました。
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グリゴリー・ラスプーチン
医者も匙を投げるなかでアレクセイの苦しみを和らげたのが『グリゴリー・ラスプーチン』です。医者ではなく、シベリアの祈祷師であり、聖人を自称する怪僧でありました。
1905年にニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見した彼は、「自分なら皇太子を助けられる」といい、実際に皇太子の苦しみをやわらげることができました。
「ラスプーチンが何度も皇太子の苦しみを和らげたという記述はたくさんある」とナカフェトフ氏は認めています。しかしその根拠は分からず仕舞い、ナカペトフはラスプーチンがアレクセイを落ち着かせるために催眠術をつかったのではないかと仮説をたてていますが、真実はわかっていません、プラシーボ効果だった、いう説も残っています。
王朝の終焉
ラスプーチンがどのように皇太子の症状を落ち着けたのかは誰もわかりませんでしたが、一つはっきりしているのは、ラスプーチンはアレクサンドラ皇后とニコライ2世の絶大な信頼を得たために、信じられないほどの政治的影響力を得たということです。
アレクサンドラ皇后は彼がいないと落ち着かず、ニコライ2世は、ラスプーチンに政治的助言を求めるようになったのです。ラスプーチンは、
私が生きている間はアレクセイは無事であろう
と堂々と言い放ったそうです。「皇帝皇后は彼に操られている」と風刺画も出周り、宮廷内でもニコライ2世への忠誠心は揺らいでいきました。
そして1916年12月30日、ラスプーチンは、皇帝の親戚にあたるユスポフ侯爵によって殺害されてしまいます。そして18か月後の1918年7月、ラスプーチンが予言したとおりに、皇帝一家も無残なまでに惨殺されてしまったのでした。
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まとめ
症状が落ち着けば、アレクセイは『王位継承者』として普通の生活を送っていました。勉強したり公式行事に参加したり、時には遊びにも出かけました。ニコライ2世の副官アナトリー・モルドヴィノフも「皇太子は人との絆を深めるのが速く、人を愛し人のためにできる限りのことをしようとした」とアレクセイについて語っています。
ニコライ2世のもとにアレクサンドラが嫁ぐことになった時、2世の母マリアは「もし、血友病の遺伝子が孫に受け継がれたら」と心配し反対したそうですが、心配は現実のものとなってしまったのでした。
ヴィクトリア女王から受け継がれた「遺伝子」の悪戯。病気という皇后の弱みにつけ入り、皇帝一家を支配したラスプーチン。しかし、アレクセイが血友病を発症せず、アレクサンドラ皇后がラスプーチンに心酔しなかったら「ロシア革命」が避けられたかというとそうともいえず、革命は時間の問題だったのかもしれません。皇帝一家処刑までの経緯は (【ロマノフ王朝とラスプーチン】コナンと追う恐怖のロシア史)にまとめております。
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