- 薔薇戦争の終焉で、ひらかれたのがテューダー朝 (即位したのはヘンリー7世)
- 権威づけするために世継ぎ作りに奔走、焦った挙句カトリック教会と断絶
- 宗教的に混乱が起こるも、最終的にはエリザベスにより安寧がもたらされた
この記事ではそんなテューダー朝を、肖像画付きの家系図でおっていきます。
テューダー朝の家系図
こちらが、テューダー朝の家系図になります。
最後の女王エリザベス1世には子がおらず、そこでテューダー朝は終焉を迎えます。そのあとは、スコットランド王家が、イングランドの玉座も兼ねていくことになります。
家系図はジェームズ1世までまとめてみました (イングランド国王としてはジェームズ6世)。
ここら辺は本当に複雑に絡み合っていますので、下の方にテューダー朝がどうやって誕生したのか、どういう王朝だったのかをわかりやすく解説していきますね。
テューダー朝のはじまり
1455年から始まった薔薇戦争、この終焉こそ新たな時代の幕開けです。
『薔薇戦争』とはかんたんにいうと、ランカスター家と、ヨーク家間で行われた「権威をとりあう争い」でありました。この戦争に勝ったのが、ランカスター家の女系の血を引いていた ヘンリー・テューダーです。そして、彼こそがテューダー朝の創始者となる「ヘンリー7世」です。
ヘンリー7世の即位
(ランカスター家の血をひく) ヘンリーは、(敵対していた)ヨーク家のエリザベスと結婚することで全ての勢力をまとめあげることに成功します。そうして開かれたのがテューダー朝、ヘンリーは「ヘンリー7世」として即位しました。
(テューダー朝 最初の家系図)
両家が一緒になったことをよく示しているのが、テューダ家の紋章「テューダーローズ」ですね。これはランカスター家の紋章と、ヨーク家の紋章がきれいに合体されたものです。
王朝の権威は安定せず
と、テューダー朝を開いたまではよかった…….のですが、ヘンリー7世の血統は父母どちらの家系をと取っても血統的に『王位継承』の根拠がなく、王位とは無縁な人物でありました。
どういうことかというと、ヘンリー7世の血統では、「王朝を安定させるための権威」がとても弱かったのですね。そのため、彼は世継ぎとなるべき健康で強い男児を求めるようになります。また、王権を強化したのも「王朝の存続」のためでありました。
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テューダー朝ってどんな王朝?
ヘンリー7世は、王妃との間に2人の男児を授かりました。その子供のひとりが、インテリであり、暴君としても有名な国王「ヘンリー8世」です。ちなみに兄のアーサーは早逝しており、王位を継ぐことはありませんでした。
こちらが、ヘンリー7世以降の家系図ですね。ちなみに名前が赤字でハイライトされている人物が、のちに玉座についていく子女です。
(テューダー朝家系図 ヘンリー8世周辺)
世継ぎとなる男児に固執して
王朝を安定させるという課題を背負ったのは、息子のヘンリー8世も同じでした。ヘンリー8世が在位中に、6人の女性と結婚を繰り返した (ときに王妃を殺して乗り換えた) のも
継承者が女性では手に余る
ここは、王朝の力を確固たるものにするために強い世継ぎが必要だ
と考えたからだと言われています。
最初の妻に男児がもはやできない、とわかったヘンリー8世は、若く子供が埋めそうなアンを王妃にすえようと奔走しました。しかし妻は、敬虔なカトリック教徒であるキャサリン、もちろん離婚を許さないローマ教会も大反対しました。
ローマ、カトリックとの断絶
わたしの離婚を許さないカトリック教会からは、決別する
そして、国王を長とするイングランド国教会を設立するのだ
こうして誕生したのが、イングランド国教会ですね。
ヘンリー8世の離婚問題により、イングランドの宗教は永遠に変わってしまうこととなったのです。
そこまでしてアンを王妃にしようとした理由は、もし彼女に子供ができた場合でも「王妃の子でない限り、庶子とされてしまう 」からです。血統を何より重んじるヨーロッパにおいては、例外を除いて、庶子 (愛人の子供) に、王位継承権は基本的につかないのです。
ヘンリー8世が残した王位継承者
ヘンリーが残した子女は3人おりました。
ヘンリー8世が望んだ「強く健康な男の子」による王位継承は実現しませんでしたが、それぞれ苦難にみまわれながらも強く生き延び、レディ・ジェーン (在位9日間で処刑された女王)をのぞいて、順番に王位継承をしていきました。
(テューダー朝家系図 番号は王位継承順))
宗教的なゴタゴタ
ヘンリー8世の後を継いだのは、エドワード6世。
唯一の男児であった彼は15歳で亡くなってしまうのですが、エドワードがプロテスタントだったおかげで宗教改革は意外にも進むことになります。
しかしその跡を継いだのは、(最初の妻でヘンリー8世に離縁された) カトリックのメアリーでありました。彼女の治世では、プロテスタントであり反逆者となった300人が処刑されるなどたくさんの血が流れることになります。これが彼女が「ブラッディメアリ」とあだ名された由来ですね。
ちなみにその後に女王となったエリザベスはプロテスタントでありました。彼女は中立な姿勢を貫き平穏な方向へ進みましたが、このように、テューダー朝は、宗教的な混乱や対立に振り回された時代でもあったのです。
テューダー朝最後の女王、エリザベス
(エリザベス1世の肖像画)
メアリー亡き後イングランド女王となったのは、あのエリザベス1世ですね。そして彼女の治世中には、イングランドにスペインが攻め込んできます。当時のスペインは世界中に植民地を持ち、まさに文字通り「日の沈まない王国」と呼ばれるほどの強国でありました。
しかし無敵といわれたスペイン艦隊でしたが、深夜にイングランド艦隊からの攻撃を受け痛手を追い撤退。エリザベスは、小国といえど、無敵といわれたスペインから国土を守ったのでした。
母が冤罪をきせられ、父に処刑されたりとゴタゴタがあったからか、彼女は生涯独身を貫きました。ヴァージンクイーンの異名を持つエリザベスには子供がおらず、ここでテューダー朝は終焉を迎えることになったのでした。
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まとめ
この記事では、家系図を用いて、テューダー朝の成り立ちから終焉までをご紹介しました。
- 薔薇戦争の終焉とともに、ひらかれたのがテューダー朝
- 創始者がそもそも王位に遠かったため、権威づけするために世継ぎ作りに奔走
- 焦った挙句、カトリック教会と断絶
- イングランド国教会をひらくも、国内で宗教的な対立が勃発
- しかし最後のエリザベスの治世で国は平穏な方向へ向かっていった
ということですね。また他国からの侵攻を防ぎ、国土を守ったのも特徴でしょうか。(一部唯一大陸にあったカリーは失っていますが…..) テューダー朝は「大英帝国繁栄の礎を作った王朝であった」といわれることも多いです。
余談ですが、この時代は本当に複雑で、家系図作るのは結構大変でした。なので、少しでもこの時代の面白さがわかりやすく伝えられていたら嬉しいです。
いや〜、複雑だった。大変だったわ〜
力を確固たるものにするために男児を欲したヘンリー8世ですが、最後に安寧をもたらしたのが「エリザベス女王」であるのもまた、なんともいえない皮肉というやつでしょうか。ちなみに、そんなエリザベス女王についてはこちらの記事にまとめております。(参考:【エリザベス1世】悲劇の王妃の元にうまれたイングランド女王)
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