フィンセント・ファン・ゴッホは、精神を病み、自ら左耳を切り落とした画家として知られています。しかし、あなたは真の理由を知っていますか? 今日フィンセント・ファン・ゴッホはよく知られた名前ですが、当時は違いました。
実際彼が生きていた頃は、近所の人たちが「彼は社会にとって危険だ」として、逮捕してほしいと警察へ嘆願書を提出するほどだったのです。この記事では、歴史上最も愛された画家のゴッホの苦悩する人生について、彼にまつわる3つの逸話を紹介します。
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ゴッホについてあまり知られていない3つの逸話
① ゴッホと同姓同名の人物は、何人か存在した
両親は、彼を祖父にちなんで『ゴッホ』と名付けました。しかし、ゴッホには生まれてすぐに亡くなってしまった同姓同名の兄がおりました。ゴッホは兄のお墓をみて「自分は既に死んでいるのだ」と思い込み、幼少期を複雑な気持ちで過ごしたという逸話も残っています。
後に、ヴィンセントの弟テオには、彼が兄の名をとって『ゴッホ』と名づけた息子もいました。全部で少なくとも4人の『フィンセント・ファン・ゴッホ』がいましたが、実はもっと多かったのではないかともいわれています。そしておそらく、今後も誰も知ることはないのでしょう。
② ゴッホが切り落としたのは、耳の一部だけ
今日、ほとんどの人が画家のフィンセント・ファン・ゴッホについて知りたがるのは、「彼が自分の左耳を切り落とした」という伝説のためです。たしかに真実ではありますが、それは部分的にでありました。
彼は自分の耳を切り落とした、といわれていますが、実際に切り落としたのは左耳の「耳たぶだけ」だったのです。この出来事は、1888年12月23日ゴッホと一時ルームシェアをしていたポール・ゴーギャンとの口論がきっかけとなりおこりました。ゴッホが自分の耳を切断した理由は議論の余地がのこされていますが、実際のところ誰も本当の話を知りません。いまや残されたのは、伝え抜かれた、いくつかの逸話のみです。
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③ ゴッホの絵がはじめて売れたのは、亡くなる数ヶ月前だった
ゴッホは必ずしも私たちが今日知っている有名な画家ではありませんでした。実際、精神病を抱えて奇行も多かったゴッホとは、多くの人は関わりたがらなかったのです。彼は20歳代から絵を描き始めましたが、彼が生きている間、売れた絵は1枚だけでした。
それは彼が亡くなる約7ヶ月前ブリュッセルで開かれた毎年恒例のアートショーで、彼が3つの風景画、2つのひまわり、そして赤い葡萄畑という絵を出品したときのことです。
2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ、テオから兄ゴッホに伝えられました。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っています。それは、ゴッホが亡くなる間際のことでありました。
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あとがきにかえて
ゴッホの晩年の作風はとても穏やかで、優しい色使いのものが多いです。長い間、精神病で苦しんだゴッホですが、これほど人の心を動かす作品が描けたのも、そういった苦悩があったからなのかもしれません。大器晩成というとまた少し違うかもしれませんが、いま報われなくても色んなものがつながって、多くの人に影響を与えるということは実はよくあることなのかもしれません。そしてそれを知らないのは本人だけ、ということも。生命の強さを描き写したようなゴッホの絵画、元気のないときはぜひ眺めてみてはいかがでしょうか。
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