オラニエ公ウィレム1世は、オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主。日の沈まぬ国と呼ばれ、当時世界最強の力を誇っていたスペインハプスブルク家から独立を果たした君主、オラニエ公ウィレムについてご紹介します。
オラニエ公 ウィレム1世とは
オランダ独立戦争において、先頭をきった君主
オランダ、ゼーランド、ユトレヒトの旗手であるオラニエ公ウィリアムは、80年戦争(※)開始時のオランダ反乱やオランダ共和国の誕生に重要な役割を果たしました。オラニエ公として、彼はスペイン (ハプスブルク家勢力) への反乱の軍事的および政治的な責任をおいましたが、彼の決定的な貢献を証明したのは、戦争の混乱の中で『統一の焦点』としての役割を果たす彼の能力でありました。
「沈黙の君主」としても知られていますが、気に食わない相手 (とくに外交上媚を打っても仕方ない) とされる人には冷たいといった話が残っているためです。これは反乱直前の時期の旗幟を鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には愛想がよく非常におしゃべりであったとされています。
オラニエ公が開始した、80年戦争とは
80年戦争とは、1568年から1648年にかけてネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。 これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもあります。
ウィレム1世が誕生するまで
類稀なる運に恵まれた子供時代
ウィレム1世はナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世の長男で、ルター派支持諸侯のなかで育ちました。1530年には母方の叔父からシャロン=アレイ家の諸藩を相続し、フランシュ=コンテの最大の領主でプロヴァンス=オラニエ公国の統治者となりました。そして1544年には、父方のいとこであるオラニエ公ルネが殺害されたため、若干11歳のウィレムが、ルネが持っていたナッサウ・ブレダ家とシャロン=オレンジ公の家を合わせた資産を相続することになりました。
ウィレムが相続した広大な土地
このふたつを相続して、彼は『オラニエ公ウィレム1世』を名乗るに至りました。以後ウィレムの家系は、オラニエ=ナッサウ家と呼ばれることになります。
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世界最強の力を誇った、ハプスブルク家との関係
オランダの領主 カール5世からの寵愛
わずか11歳で大役を任せられたウィレムをみて、ブルゴーニュ人でオランダの領主でもある神聖ローマ皇帝 カール5世は「ウィリムの両親は彼の後見を放棄し、この若い王子 (11歳のウィリム)は彼の新しい祖国でカトリックとして教育されるべきだ」と助言しました。これをうけウィリムは、ブレダやブリュッセルで家庭教師の指導を受けて少年時代を過ごし、地位に必要な教養と知識原則を身につけます。フランス語を常用語として、オランダ語の口語表現も習得しました。
若い頃ブリュッセルでスペインハプスブルク家の宮廷に仕え、ウィレムは皇帝と親しい関係を築きました。1555年のブリュッセルでのブルゴーニュ公退位の式典でも、杖をついて歩くカールの腕を支える役目を果たしたほどです。カール5世が退位すると、弟のフェルディナンドが神聖ローマ皇帝となりオーストリア領土を得ました。オランダとイタリアを含むスペイン帝国は、カール5世の息子のスペイン王フェリペ2世が継承しました。
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ハプスブルク家からの独立
ウィレム、フェリペ2世へ反旗を翻す
皇帝カール5世の息子でスペイン王となったフェリペ2世は1559年にオランダ、ゼーラント、ユトレヒト各州の知事(すべて現代のオランダに)にウィレムを任命しました。これによりウィレムの政治権力は大幅に増大します。ウィレムは元々ルター派として育てられ、途中でローマカトリックに改宗していました。しかし彼自身が信教の自由を強く主張していたため、オランダのカトリック系スペイン人によるプロテスタント迫害に悩まされることも多くありました。
そして、ウィレムはひそかにオランダでのスペイン軍の終焉を望んでいました。1568年にウィレムをリーダーとするオランダがフェリペ2世に反乱を起こし、その結果80年戦争が勃発します。この戦争の結果、1581年に『北部連合国』が独立しました。統一国は、7つの州からなる連合国で現在はオランダと呼ばれ、いずれも独立国として政権を持っています。
ウィレムに向けられた暗殺者
1573年ウィレムはローマカトリック教会を去り、ジョン・カルヴァンの実践に従ったカルヴァン主義者改革派 (※) のオランダ改革教会の一員となりました。1580年フェリペ2世はウィレムを『無法者』と宣告、「キリスト教全体の害虫で、人類の敵」と呼び、ウィレムを殺害した者には25,000クラウンを提供するという御触れを出しました。ウィレムはフェリペ2世に反抗し、自分の行動を擁護する文書を発行、プロテスタントの改革宗教への忠誠を改めて表明しました。
1582年3月18日、スペイン人のフアン・デ・ジャウレグイがウィレムの暗殺未遂をおこします。ウィレムは重傷を負いましたが、3人目の妻シャルロット・ド・ブルボン=モンペンシエと妹マリアのおかげで一命を取り留めました。
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ウィレムの最後
バルタザール・ジェラールによる暗殺
スペインとの戦いが続く中、1584年7月10日、ウィレムはデルフトの彼の居館プリンセンホフで、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教徒バルタザール・ジェラールによって暗殺されました。昼食を取るために2階の書斎から1階へ下りようとしたウィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられています。
暗殺者はバルタザール・ジェラーズという狂信的なカトリック教徒でした。彼は、オルニエ公を殺したのは「生きている限り王に反抗し続け、オランダのカトリック教会や社会に損害を与えるからだ」と述べました。ウィリムはデルフトのニューウェ=ケルクに埋葬され、シンプルな墓がおかれました。
オラニエ公の死で反乱軍の力は弱まったわけですが、フェリペ2世は晩年には殆ど力を失い、オランダでの戦闘に立ち向かうために、外国の指導者を探し回っていたといいます。
ひとつの時代の終わり
その後は次男のマウリッツが後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任し、1597年までに再び北部7州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していきました。ウィレムの次男のマウリッツは、その後スペインとの八十年戦争において中心的な役割を果たしました。死に臨んで、「2プラス2は4である」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者であったとされています。
マウリッツが生きている間は、それでも名将スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところでありましたが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たすことができました。オランダはハプスブルク家の支配から独立したものの、正式な『独立宣言』というのはなかった、ともいわれています。それにしても、君主が暗殺されたとしても、時代をこえて独立を勝ち取ったオランダ。本当の勝者はどちらだったのか、死んでもまだわからない勝負もあるのかもしれません。
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